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恒久平和の象徴…、それ以前にこれはれっきとした建築だ。 |
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原爆ドーム/旧広島県物産陳列館・産業奨励館 Atomic Bomb Dome / former Hiroshima Prefectural Industrial Promotion Hall |
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#1:平和記念公園からの軸を受け止める。 |
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#2:少し角度を変えて、今は無き旧市民球場から撮影。 |
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#3:南東側から撮影。爆風はほぼ直上の東側から襲ってきたためこのような壊れ方をしている。超広角レンズのせいでパースが効いているが、実際はこれほどの広がりはない。 |
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#4:エントランスまわり。アールデコより少し前、20世紀初頭のかなり前衛的なデザインであることが分かる。 |
では、建築としての原爆ドームを見ていこう。まず注意すべきなのは、本作はアンデルセンや旧日銀のような、いかにも西欧っぽい様式に包まれた歴史主義建築とは違うという点だ。コーニスは付いているが、列柱やペディメントはない。かといって、後に登場するモダニズムのような無装飾のツルンとしたデザインではなく、正方形を主体とする幾何学模様が各所に入っている。これはセセッションの影響とされる。(写真#4) このあたりを読み解くにはレツルが建築を学んだ20世紀初頭のプラハを知る必要がある。当時のプラハはオーストリア・ハンガリー帝国の領内であり、大型建築ではネオ・バロックが流行、そこにセセッションが入り、アール・ヌーヴォーが入るという状況で、アールデコやモダニズムは当時まだない。 レツルの師匠にあたるヤン・コチェラはオットー・ワーグナーに師事していたという。ワーグナーといえばセセッション発祥の地であるウイーンの建築界の中心人物。さらにレツル18歳の時にウイーンにセセッション館が建っているから、レツルも最新トレンドとしてセセッションに触れていた可能性が高い。 一方、レツル自身の初期作品はアール・ヌーヴォーの影響が強い(写真#11)。レツルはデ・ラランデ事務所のスタッフとして来日した後、自身の設計事務所を東京に構えたといい、来日の動機はよく分かっていないが、おそらくアールヌーヴォーに傾倒する中でその源流である日本に関心を持ったのだろう。 少し話が横道にそれたが、知識を付けてから本作と向き合うと、見えてなかったものが実によく見えるようになる。楕円形のドームや外観の”うねり”はネオ・バロック風で装飾はセセッション風。アール・ヌーヴォーこそ見られないものの、当時のプラハで出てきたスタイルが積極的に取り入れられた結果として本作がある、すなわち20世紀初頭の欧州の先端的・前衛的な建築デザインが外国人建築家によって日本にもたらされた一例と解釈できる。 もう一点指摘したいのはシークエンスだ。本作の棟配置は川のラインに沿って微妙に角度がついており、加えて外観の”うねり”があるので、川辺を歩きながら外壁をを眺めると形態が動的に変化していく様子(シークエンス)を味わえる。建築家がどこまで意識したかは分からないが、広島の他の建物ではあまり見られない視覚効果だろう。 一方、自分の中にはまだ謎も残されている。先ほど歴史主義建築ではないと述べたが、室内を見るとなぜかイオニア式柱頭を備えた柱がある(写真#6)。被爆時の損傷なのかディテールは潰れているものの、古写真では渦巻き模様が確認できるので間違いない。室内のホール空間には西欧っぽさを残したい理由があったのかもしれないが、今のところ詳細は不明なままだ。 |
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#5:ファサードに”うねり”が付いていることが分かる |
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#6:中央部を見ると、なぜかイオニア式柱頭装飾がある。 |
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#7:ファサードを川に向けていることがよく分かる。同時に平和公園周辺の河川景観にも注目して欲しい。雁木という土地の記憶を継承した、国内では指折りの美しい護岸だ。 |
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さて、このような古い建物であっても、現代の視点から学ぶべき点は多い。本作の見習うべき最大のポイントは、ファサード(正面)を川に向け開放的な川辺の景観デザインを成立させているという点だ。敷地の条件から結果的に川を向いたとか、プラハにそっくりな建物があるとか陰口をたたかれるが、建築家は荷揚げ場所としての相生橋橋詰というコンテクストを読んでデザインしたのだと思う(*4)。 日本の建築は道路に顔を向ける傾向があり、しかも河川は斜線制限や日影制限が緩いからギリギリまで建ててしまいがちで、河川景観は貧相なものになっている。そんな中にあって、本作はいかにもヨーロッパ的なリバースケープへの意識を強く感じさせる、川辺の風景づくりのお手本ということができる。 |
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Atomic Bomb Dome former Hiroshima Prefectural Industrial Promotion Hall The A-bomb Dome attracts the most tourists in Hiroshima. Even before the A-bombing, this building with an elliptical copper dome was a popular destination for many tourists. However, its earthquake resistance was utterly deficient*. It collapsed without standing the fierce blast at the time of the explosion. Ironically, its monumental value might have been enhanced because it crumbled down. The Dome has survived to this day even though it was often on the verge of demolition. The Dome is supported by steel beams and its cracks are injected with resin. It has narrowly escaped collapse but might fall in an earthquake any time. The Dome was designed by a Czech architect, Jan LETZEL (1880-1925). LETZEL had worked as an architect of art nouveau (photo #11). Like many other art nouveau artists, he must have headed for Japan. He designed half-Japanese half-Western buildings such as Matsushima Park Hotel but almost all of his works were lost and do not exist. The Hiroshima Prefectural Commercial Exhibition Hall was built by Hiroshima Prefecture as a center to expand sales routes of local products which had increased in volume and variety due to the demand created by the Shino-Japanese War. It was renamed Hiroshima Prefectural Products Exhibition Hall in 1921 and Hiroshima Prefectural Industrial Promotion Hall in 1933. Hiroshima local products were displayed and sold; cultural activities such as Hiroshima Prefecture Art Exhibition, Exposition, and others were also held. In March 1944, when Japan was still fighting the war, it lost its function of promoting industry and was used as public offices. What I think is excellent about this architecture is to have created an open riverside landscape, with its facade facing the river. Hiroshima has been a city of rivers, but now many buildings face the street instead of the river. Many can be learned from the hall to think again about landscaping river vicinities. Design: Jan LETZEL Location: 1-10 Ote-machi Naka-ku, Hiroshima City Purpose of Use: Display local products, etc. Completed in: Apr 1915 Total Floor Area: 3069sqm (at the time of completion) Structure: Bricks, RC in part; three-storied, five-storied in part |
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[行き方ガイド]
[補注] (*1) 1996年12月7日、アメリカと中国を除く国々の支持を得てユネスコの世界遺産に登録された。参考サイト 1) に詳しい。 (*2) 例えばレストハウスや日銀旧広島支店は、いずれも爆心地近くに立地しているにも関わらず倒壊を免れている。両者と原爆ドームでは確かに条件が違うが、ドームの脆弱性を示す論拠としてよいと考える。ちなみにレツルが同時期に設計した「上智大学校舎」は関東大震災(1923)によって完全に倒壊している。 (*3) 参考サイト 2) などを参考にした。 (*4) 裏付ける資料は手元に無い。私の推測である。 [参考文献・サイト] 1) ユネスコ世界遺産活動 http://www.unesco.jp/contents/isan/ 2) 広島平和記念資料館ウェブサイト http://www.pcf.city.hiroshima.jp/index2.html 3) 日本建築学会中国支部・中国地方まち並み研究会(1999)「中国地方のまち並み」中国新聞社 pp198 4) 日本建築学会(1998)「総覧 日本の建築 第8巻」新建築社 pp175 5) 広島市+被爆建造物調査研究会(1996)「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島平和記念資料館 pp26 |
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