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広島県 INDEX
恒久平和の象徴…、それ以前にこれはれっきとした建築だ。
DATA
■設計:ヤン・レツル
■施工:椋田組
■所在地:広島県広島市中区大手町1-10
■用途:県内の物産の展示等
■竣工:1915年(大正4年)4月
■延床面積:3069平米(建設時)
■構造:煉瓦造(一部RC造)3階(一部5階)
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世界遺産にも登録(*1)され、広島最大の観光名所として君臨している原爆ドームだが、被爆前にあっても楕円形ドームを備えるこの建築は観光名所であった。
レンガとRCが併用されているが、開口部が大きく、耐震性には問題があったと思われ、RC造であるレストハウス日銀とは異なり被爆時にほぼ崩壊した(*2)。辛うじて残っているのは爆風がほぼ直上から襲ってきたためであろう。戦後はたびたび取り壊しの危機に瀕しつつも生き延びた。鉄骨により支えられ、樹脂を注入されることで全面崩壊を免れているが、依然として地震等により倒壊してもおかしくない状況にある。

続いて、本作の建設経緯について。本作は日清戦争を契機に発達した県内製品の販路を開拓する拠点「広島県物産陳列館」として計画された。建設主体は広島県であり、設計者であるチェコ人建築家ヤン・レツルにこのプロジェクトを持ちかけたのは県知事寺田祐之とされる。レツルは東京・精養軒の仕事をこなす中で宮城県の松島パークホテル(精養軒が運営を担った)を設計しており、寺田が宮城県知事時代にこれを見ていたことが縁となったようだ。

1913(大正2)年2月、知事は第18代寺田祐之氏が宮城県知事より着任した。彼は宮城県知事時代、松島パークホテルの設計をヤン・レツル氏に依頼した経験から広島陳列館の設計を東京銀座京橋に設計事務所を開いていたヤン・レツル氏に依頼している。当時レツル氏は水を背景にした建築物にユニークな美しい設計をするということで知られていた。レツル氏が設計の図面と仕様の一式を終えたのは1913(大正2)年10月4日である。設計料は4575円であった。当時広島市の土地は坪当たり24銭から4円で、石工の日当は90銭から1円10銭、新橋−広島間の汽車の運賃は三等で5円17銭、二等7円75銭、一等13円33銭で、広島市の人口は13万であった。
広島経済大学ウェブサイト内「原爆ドームの歴史」から引用)

その後、1921年に「広島県商品陳列所」、1933年に「広島県産業奨励館」と改称され、 広島県内の物産の展示・販売のほか、広島県美術展覧会、博覧会、共進会などの文化的催しに利用された。「菓子博」もここで開かれていたようだ。
しかし、戦時下の1944(昭和19)年3月になると産業奨励館としての業務が廃止されて統制会社の事務所へと変わり、被爆の日を迎えることになる。(*3)
原爆ドーム/旧広島県物産陳列館・産業奨励館
Atomic Bomb Dome / former Hiroshima Prefectural Industrial Promotion Hall

#1:平和記念公園からの軸を受け止める。

#2:少し角度を変えて、今は無き旧市民球場から撮影。

#3:南東側から撮影。爆風はほぼ直上の東側から襲ってきたためこのような壊れ方をしている。超広角レンズのせいでパースが効いているが、実際はこれほどの広がりはない。

#4:エントランスまわり。アールデコより少し前、20世紀初頭のかなり前衛的なデザインであることが分かる。
では、建築としての原爆ドームを見ていこう。まず注意すべきなのは、本作はアンデルセン旧日銀のような、いかにも西欧っぽい様式に包まれた歴史主義建築とは違うという点だ。コーニスは付いているが、列柱やペディメントはない。かといって、後に登場するモダニズムのような無装飾のツルンとしたデザインではなく、正方形を主体とする幾何学模様が各所に入っている。これはセセッションの影響とされる。(写真#4)

このあたりを読み解くにはレツルが建築を学んだ20世紀初頭のプラハを知る必要がある。当時のプラハはオーストリア・ハンガリー帝国の領内であり、大型建築ではネオ・バロックが流行、そこにセセッションが入り、アール・ヌーヴォーが入るという状況で、アールデコやモダニズムは当時まだない。
レツルの師匠にあたるヤン・コチェラはオットー・ワーグナーに師事していたという。ワーグナーといえばセセッション発祥の地であるウイーンの建築界の中心人物。さらにレツル18歳の時にウイーンにセセッション館が建っているから、レツルも最新トレンドとしてセセッションに触れていた可能性が高い。
一方、レツル自身の初期作品はアール・ヌーヴォーの影響が強い(写真#11)。レツルはデ・ラランデ事務所のスタッフとして来日した後、自身の設計事務所を東京に構えたといい、来日の動機はよく分かっていないが、おそらくアールヌーヴォーに傾倒する中でその源流である日本に関心を持ったのだろう。

少し話が横道にそれたが、知識を付けてから本作と向き合うと、見えてなかったものが実によく見えるようになる。楕円形のドームや外観の”うねり”はネオ・バロック風で装飾はセセッション風。アール・ヌーヴォーこそ見られないものの、当時のプラハで出てきたスタイルが積極的に取り入れられた結果として本作がある、すなわち20世紀初頭の欧州の先端的・前衛的な建築デザインが外国人建築家によって日本にもたらされた一例と解釈できる。

もう一点指摘したいのはシークエンスだ。本作の棟配置は川のラインに沿って微妙に角度がついており、加えて外観の”うねり”があるので、川辺を歩きながら外壁をを眺めると形態が動的に変化していく様子(シークエンス)を味わえる。建築家がどこまで意識したかは分からないが、広島の他の建物ではあまり見られない視覚効果だろう。

一方、自分の中にはまだ謎も残されている。先ほど歴史主義建築ではないと述べたが、室内を見るとなぜかイオニア式柱頭を備えた柱がある(写真#6)。被爆時の損傷なのかディテールは潰れているものの、古写真では渦巻き模様が確認できるので間違いない。室内のホール空間には西欧っぽさを残したい理由があったのかもしれないが、今のところ詳細は不明なままだ。

#5:ファサードに”うねり”が付いていることが分かる

#6:中央部を見ると、なぜかイオニア式柱頭装飾がある。

#7:ファサードを川に向けていることがよく分かる。同時に平和公園周辺の河川景観にも注目して欲しい。雁木という土地の記憶を継承した、国内では指折りの美しい護岸だ。

#8:原爆ドーム周辺。(撮影年不明。1950年代と思われる) 河岸緑地が整備される前で、バラックが建ち並んでいる。当時は当たり前のように川で水泳をしていた。こういった川との密な関わりは現代では見られない。
撮影:佐々木雄一郎

#9 : 8月6日の夜には灯籠流しが行われ、平和公園の親水護岸が真価を発揮する。被爆者の高齢化に伴い、イベントの目的も慰霊からメッセージ発信に変化してきた。

#10

さて、このような古い建物であっても、現代の視点から学ぶべき点は多い。本作の見習うべき最大のポイントは、ファサード(正面)を川に向け開放的な川辺の景観デザインを成立させているという点だ。敷地の条件から結果的に川を向いたとか、プラハにそっくりな建物があるとか陰口をたたかれるが、建築家は荷揚げ場所としての相生橋橋詰というコンテクストを読んでデザインしたのだと思う(*4)

日本の建築は道路に顔を向ける傾向があり、しかも河川は斜線制限や日影制限が緩いからギリギリまで建ててしまいがちで、河川景観は貧相なものになっている。そんな中にあって、本作はいかにもヨーロッパ的なリバースケープへの意識を強く感じさせる、川辺の風景づくりのお手本ということができる。


#11:ホテルヨーロッパ

 #13:プラハ市民会館

#14:市民会館「スメタナホール」
[附論] プラハの写真
(写真#11)プラハ市内の「ホテルヨーロッパ」はレツルが一部デザインを担当したとされる。見るからにアールヌーヴォーな建物。
(写真#12,#13)プラハ市民会館は中央部のドームや屋根の辺りの造形など、産業奨励館を思わせる姿をしている。竣工年も1911年と近く、実際に見たときにはドキリとしてしまった。
Atomic Bomb Dome
former Hiroshima Prefectural Industrial Promotion Hall


The A-bomb Dome attracts the most tourists in Hiroshima. Even before the A-bombing, this building with an elliptical copper dome was a popular destination for many tourists.
However, its earthquake resistance was utterly deficient*. It collapsed without standing the fierce blast at the time of the explosion. Ironically, its monumental value might have been enhanced because it crumbled down. The Dome has survived to this day even though it was often on the verge of demolition. The Dome is supported by steel beams and its cracks are injected with resin. It has narrowly escaped collapse but might fall in an earthquake any time.

The Dome was designed by a Czech architect, Jan LETZEL (1880-1925). LETZEL had worked as an architect of art nouveau (photo #11). Like many other art nouveau artists, he must have headed for Japan. He designed half-Japanese half-Western buildings such as Matsushima Park Hotel but almost all of his works were lost and do not exist.

The Hiroshima Prefectural Commercial Exhibition Hall was built by Hiroshima Prefecture as a center to expand sales routes of local products which had increased in volume and variety due to the demand created by the Shino-Japanese War. It was renamed Hiroshima Prefectural Products Exhibition Hall in 1921 and Hiroshima Prefectural Industrial Promotion Hall in 1933. Hiroshima local products were displayed and sold; cultural activities such as Hiroshima Prefecture Art Exhibition, Exposition, and others were also held. In March 1944, when Japan was still fighting the war, it lost its function of promoting industry and was used as public offices.

What I think is excellent about this architecture is to have created an open riverside landscape, with its facade facing the river. Hiroshima has been a city of rivers, but now many buildings face the street instead of the river. Many can be learned from the hall to think again about landscaping river vicinities.

Design: Jan LETZEL
Location: 1-10 Ote-machi Naka-ku, Hiroshima City
Purpose of Use: Display local products, etc.
Completed in: Apr 1915
Total Floor Area: 3069sqm (at the time of completion)
Structure: Bricks, RC in part; three-storied, five-storied in part

arch-hiroshima 広島の建築 arch-hiroshima(makotoの個人サイト)では、ここに掲載されていない建築についても紹介しています。
[行き方ガイド]
広電「原爆ドーム前」電停
バスだと「紙屋町」「市民球場前」。「広島バスセンター」からでも歩ける。

[補注]
(*1) 1996年12月7日、アメリカと中国を除く国々の支持を得てユネスコの世界遺産に登録された。参考サイト 1) に詳しい。
(*2) 例えばレストハウス日銀旧広島支店は、いずれも爆心地近くに立地しているにも関わらず倒壊を免れている。両者と原爆ドームでは確かに条件が違うが、ドームの脆弱性を示す論拠としてよいと考える。ちなみにレツルが同時期に設計した「上智大学校舎」は関東大震災(1923)によって完全に倒壊している。
(*3) 参考サイト 2) などを参考にした。
(*4) 裏付ける資料は手元に無い。私の推測である。

[参考文献・サイト]
1) ユネスコ世界遺産活動 http://www.unesco.jp/contents/isan/
2) 広島平和記念資料館ウェブサイト http://www.pcf.city.hiroshima.jp/index2.html
3) 日本建築学会中国支部・中国地方まち並み研究会(1999)「中国地方のまち並み」中国新聞社 pp198
4) 日本建築学会(1998)「総覧 日本の建築 第8巻」新建築社 pp175
5) 広島市+被爆建造物調査研究会(1996)「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島平和記念資料館 pp26
作成:2002/8/20 最終更新:2014/2/17 作成者:makoto/arch-hiroshima 翻訳:jasmine 使用カメラ:Canon PowerShot G3, Nikon D70
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