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和風な修道院を推理する |
では、外観から見ていこう。 本作はキリスト教の修道院でありながら、和風のデザインで統一されていることに特徴がある。破風に懸魚までは普通だが、そこに十字架がついていたり、いかにも仏教っぽい塔(鐘楼)の頂点にも十字架があったりと、大変興味深い。文献によれば、周辺の仏教徒(安芸門徒)への配慮から和風デザインになったとあるが、本当にそれだけの理由なのかは不明であり、建設経緯については研究が待たれる。 |
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イエズス会 長束修道院 Nagatsuka Monastery for Jesuits |
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広島デルタの北側、長束に建つ修道院。今回特別に見学する機会を得たのでレポートしたい。なお本作については文献等の調査が不十分なので、全般的に推論(憶測を含む)が多くなっている点に注意頂きたい。 | |||||||||||||
#1:外観はキリスト教っぽくない。(拡大) |
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#2:懸魚などにさりげなく十字架があしらわれている。奥の塔は鐘楼。(拡大) |
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#7:内部の廊下。正面に聖堂。(拡大) |
続いて室内について。廊下の天井は思ったより高く、幅も広い。採寸すればよかったのだろうが、伝統的な和風建築のスケールとは若干異なる印象を受けた。階段室のスケールも同様だ。 最大の見せ場はやはり聖堂だろう。畳敷きの聖堂はいくつも見たことがあるが、ここまで和風が貫かれているものは初めて。柱の上部には存在感のある肘木、天井は格天井、ディテールでは釘隠しなど、豪華ではないが凛とした美しさのある和のエレメントがそろっている。側廊状のスペースの先には床の間があり、しかも今でも掛け軸をかけてうまく使っているところには感銘を受けた。 なお、被爆時の院長であったアルペ神父(後のイエズス会総長)は医術の心得があり、市内から避難してくる負傷者の救護にあたった。幟町教会で重傷を負ったラサール神父(世界平和記念聖堂建立の立役者)も治療を受けたというのはよく知られているが、その救護活動の中心となったのはこの聖堂だという。 さて、外観・内部を一通り見た感想としては、プロポーションには若干違和感があるけども、外国人がデザインした建築とは思えなかった。 本作の設計プロセスについて私の推理はこうだ。まず、東京のグロッパー修道士が基本設計レベルの図面を描いて、構造に影響する柱や耐力壁の配置、階高の指示を出す。そこから先は実際に施工を担う地元の大工に任せ、普段やっている仕事の要領でディテールを作り込んでいく。その結果、日本的な感性に響くけどもどこか違和感のある建築になった…のではないだろうか。 敷地内にはRC造の修道院も建っている(写真#13-17)。こちらは1958年のもので、既存建物との調和を考えたのか、和風の屋根が載っている。戦後の竣工だが近代和風建築(*1)に分類していいだろう。修道院ということもありハデさはないが、1階外壁の洗い出し仕上げや、スチールサッシなど、50年代の建物に共通するグッとくる要素を備えている。聖堂内部は和風ではないが、居心地のよい空間。 築50年を超えているが見るからに頑丈であり状態は良好だ。全く裏付けはないが、こちらもグロッパー修道士が何らか設計に関与したのではないかと推測している。 |
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#8:聖堂内部は畳敷き。保存状態はすばらしい。(拡大) |
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#13:戦後に建てられたRCの建物。(拡大) |
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[補注] (*1) 西欧の技術が入ってくる近代化の過程で生じた新たな和風建築全般を指す。広島近郊でコンクリートを採用ものとしては、木造のフォルムに忠実な「厳島神社宝物館」、イデオロギーの影響を受けた帝冠様式に近い「頼山陽文徳殿」などがある。 [参考文献・サイト] 1) 広島市+被爆建造物調査研究会(1996)「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島平和記念資料館 2) 石丸紀興(1988)「世界平和記念聖堂」 相模書房 [行き方ガイド] ※通常、内部見学はできません。
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