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広島県 INDEX
”反コルビュジェ”的手法で表現された祈りの空間。
丹下のピースセンターと並び称されるべき、表現派の傑作だ。
DATA
■設計:村野藤吾+近藤正志/村野・森建築事務所
■所在地:広島県広島市中区幟町4-42
■用途:聖堂
■竣工:1954年(昭和29年)
■延床面積:2361平米
■構造:RC造・W造3階
■付近の地図(mapion)

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[注意!] 祭儀の際には見学を控えるなど、現役の宗教施設として使われていることに十分配慮してください。祭壇は立入禁止です。


広島におけるカトリックの拠点。この地にあった幟町教会の主任司祭として被爆し、奇跡的に生き残ったドイツ人神父フーゴー・ラサール(*1)の熱意によってローマ法王をはじめとするキリスト教世界の支援の元、「世界平和記念聖堂」として再建された。

聖堂建設の後援会事務局長を務めた土井正夫氏の回想

(略)−その時に、神父様は私に、
「土井さん、沢山の人が死にました。この死んだ人の霊魂はどうなっているのでしょうか」
こう云われた時に私は、頭から冷や水をかけられたようにジーンとしました。神父様は、その時に、
「私はこれから世界中を廻ってこの被爆者のために、その霊を慰める聖堂を建てたいと思う」
とおっしゃいました。私はその時、何の気もなく、何の考えもなく、
「神父様、おやんなさい。いい事です。あとの片付けは私がやります。(私に出来るはずはないんですが)」
たった一言そうご返事申し上げました。ラサール神父様のその決心が、この記念聖堂を建てる出発点だったと私は思います。
(石丸紀興著「世界平和記念聖堂」相模書房 より引用)


設計者選定時の混乱


ラサール神父は建築家今井兼次(*2)に相談し、聖堂の設計者をコンペで選ぶことを決める。審査員は今井兼次・村野藤吾・堀口捨巳・吉田鉄郎の日本人建築家、教会側からはフーゴー・ラサール、グロッパ・イグナチオ、荻原晃の3名、これに後援の朝日新聞社代表を加えた8名となった。

募集要項では
1 聖堂の様式は日本的性格を尊重し、最も健全な意味でのモダン・スタイルである事、従って日本及び海外の純粋な古典的様式は避くべきである。
2 聖堂の外観及内部は共に必ず宗教的印象を与えなければならない。
3 聖堂は記念建築としての荘厳性を持つものでなければならない。
石丸紀興著「世界平和記念聖堂」相模書房 pp55 より引用

という条件が課されている。応募する側は一見して相反するこの条件をどう解きほぐすかで悩むことになっただろうが、審査する側も各々の考え方により評価が分かれることになる。すなわち、応募総数177点に対して、1等なし、2等が丹下健三と井上一典、3等が前川国男や菊竹清訓ほか…という結果に終わったのだった。
参考文献 1) と 3) によると、モダニズムとしての完成度が高いが”コルビュジェ色”が強い丹下案・前川案の評価を巡って意見がまとまらなかったのだという。すなわち、イエズス会側があからさまなモダニズムの表現に難色を示し、村野藤吾・今井兼次も丹下案・前川案に否定的だった一方で同じく審査員の堀口捨巳・吉田鉄郎は丹下案・前川案を高く評価した。かくして最も優れていた丹下案を2等とし、1等なしという結果に終わった。そして審査員であったはずの村野が設計者に選定された。
このように設計者選定に関して大波乱を巻き起こしはしたが、この聖堂は建築史に残る傑作となった。にわかには信じがたいが、村野は施工にも困難を極めたこの建築の設計料を受け取らなかったという。


丹下と村野のコントラスト

日本を代表する建築家丹下健三と村野藤吾は、図らずもこのコンペによってその方向性の違いが明確なものとなった。世界平和記念聖堂コンペの直後、平和記念資料館コンペで一等となった丹下はヒューマンスケールからの脱出を目指していく(詳しくはこちらを参照)のだが、脱ヒューマンスケールは人間軽視に陥る危険性を常にはらんでいる。 一方の村野はコルビュジェ的作法を熟知した上であえて反コルビュジェの立場に立ち、建築を人間の手の届く範囲に納めようとした。

聖堂に近寄ってみると、煉瓦目地の仕上げはわざと粗くしているものと思われ、ディテールの随所から”人の手”を感じることができるようになっている。ファサード下部にある彫刻(円鍔勝三氏の手による。写真#14)もピタリと納まっている。
全体としては、RC躯体に灰色のレンガを積み上げて構成されており、ファサード(写真#3)を構成する塔と聖堂のバランスは絶妙。

この聖堂、私の中では「重たい建築」という印象がとても強い。丹下のピースセンターがモダニズムという万国共通の形で人類普遍の平和を祈る場(インターナショナリズムの具現化)としているのに対し、こちらは亡き人をしのぶ慰霊の色がより強く出ているように思える。

もし丹下案が実現していたらどうなったか。東京カテドラルのような強烈な作家性を持つ空間は、当時なら慰霊には相応しくない(亡き人はコルビュジェ風建築の中で果たして幸せなのかという疑問が生じる)と判断されたのでは?と推測する。
丹下と村野、この聖堂の設計者としてどちらが良かったのか、軽はずみな断言などできない。ただ結果論ではあるけれど、丹下のピースセンターとこの聖堂の両方が広島に残り、それらが同時に戦後の建築として初の国重文に選定されたのは、ある種の運命的なものを感じずにはいられない。
世界平和記念聖堂 国指定重要文化財
Memorial Cathedral for World Peace

#1:ファサード

#2:内部空間

#3: 実は聖堂内はかなり暗い。NikonD90の高感度性能は優秀だが、さすがにISO2000だとそれなりにノイズが乗る。

#4: 北側立面。附属建物の設計者は調べていないが、聖堂へどう配慮するか苦心した跡が伺える。

#5: 塔部分の見上げ

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#14:ファサードを飾る彫刻(円鍔勝三氏の手による)

[補注]
(*1) フーゴー・ラサール/Hugo LASSALLE(1898-1990) ドイツ・エクステンブルグ生まれ。1929年に来日し上智大学で教鞭を執る。1940年から広島赴任し被爆。1948年には日本に帰化し、愛宮真備(えのみやまきび)と名乗る。1968年広島市名誉市民。
(*2) 今井兼次(1895-1987) 早稲田大学教授。インターナショナルスタイル一辺倒の建築界とは距離を置き、彫塑的な(要するにガウディっぽい)建築を指向。カトリック信者でもあった。代表作は長崎の「日本二十六聖人記念聖堂(建築マップ)」

[参考文献・サイト]
1) 石丸紀興(1988)「世界平和記念聖堂」 相模書房
2) 世界平和記念聖堂WEBサイト http://www.nobori-cho-catholic.com/
3) 丹下健三+藤森照信(2002)「丹下健三」 新建築社 pp133-135
4) 吉田研介ら(1995)「建築設計競技選集1」メイセイ出版
5) 山を歩いて美術館へ 安芸小富士から平和記念資料館・ひろしま美術館

[行き方ガイド]
[電車] 広電「銀山町」「女学院前」電停から徒歩8分。
[バス] 「女学院前」バス停から徒歩6分。
作成:2000/5/18 最終更新:2009/5/22 作成者:makoto/arch-hiroshima 使用カメラ:NikonD90, NikonD70, CanonPowerShotG3
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