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広島県 INDEX
English (arch-hiroshima)
地図から消えた島にたたずむモダニズム建築を見る
DATA
■設計:不詳
■所在地:広島県竹原市忠海町
■建設時の用途:砲台・工場
■竣工:1901年頃(砲台として)、1929年頃(工場として)
付近の地図(mapion)
■関連ページ: 小島の旧軍施設
[注意事項]
躯体の強度を保証できない、有害物質の懸念がゼロではないといった理由と推測されますが、「発電場跡」と「長浦貯蔵庫跡」の前には「立入禁止」の表示があります。当サイトではこれらを紹介していますが、中に入ることを奨励するものではありません。見学時の行動は全て自己責任で行うようにお願いします。万が一何らかの事故等に遭遇したとしても当サイトは一切の責任を負いませんのでご注意ください。

多くの廃建築が見られる全国屈指のスポット。「毒ガスの島」「地図から消えた島」など様々なエピソードでも知られている。島内は自動車の走行が禁止されている(港の駐車場にとめねばならない)ので、徒歩か自転車が原則となるが、3〜4時間もあればこのページで紹介する建造物を全部見ることは可能だ。上記注意事項を理解したうえで、また夏場は熱中症対策を万全にして行くようにしたい。
大久野島の旧軍施設
Okunoshima
要塞から毒ガス工場への転換

#1:大久野島
明治時代、敵国の戦艦の侵入をどう防ぐかは国防上の重要なテーマであり、全国各地に砲台が建設されていた。当時は砲の射程が短く、豊後水道では幅が広すぎて防衛が難しいため瀬戸内海で迎撃せざるをえず、芸予要塞と称して広島県の大久野島と愛媛県の小島に砲台が建設された。広島県内では芸予要塞の他に、倉橋島から宮島にかけて広島湾要塞(呉・広島の防備のため)が構築されていた。

大久野島では山頂部の中部砲台、沿岸部の北部・南部砲台、計3箇所に16門が設置された。主力の28cm砲は日露戦争が始まると前線に移設され使用されたが、砲台そのものは実戦を経験することはなかった。
日露戦争後に砲の射程が伸びると芸予要塞の存在価値は急速に薄れ、大久野島の砲台は廃止となり、入れ替わる形で1929年に毒ガス工場「東京第二陸軍造兵火工廠忠海兵器製造所」が建設され1945年の敗戦まで生産を続けた。陸軍が大久野島を選んだのは、島であるため秘匿性が非常に高いのと、既に大半が陸軍用地となっており建設が容易だったためと思われる。

旧陸軍は、毒ガスの全てを大久野島で生産し(1)、主に中国大陸で実戦使用したとされる(2)が、その使用は国際法違反ということもあり詳細は不明である。(ただし毒ガスの生産・保有は違反行為ではなく、アメリカなど連合国側も保有していた) また、機密保持のため地図から大久野島は抹消されていたという。最盛期には5000人の労働者を抱えていたが、厳重に口止めされる一方で毒ガスの詳細は知らされず、また安全設備の貧弱さもあり、戦地のみならず国内でも多くの後遺症患者を生むことになった。

戦後、進駐軍などの手によって施設の解体と全島の無毒化が進められ、1963年からは国民休暇村として一般に開放されている。

#2:芸予要塞と広島湾要塞

解体前(1946年)の施設群。迷彩塗装の様子がよく分かる。(「呉の歩み」より引用)
発電場前の土塁

#3:発電場跡周辺の様子。
忠海港から連絡船で大久野島2番桟橋に向かうと、接岸直前に土塁が見える。トンネルの土被りがほとんどないので、先にトンネルの躯体を施工してから土を被せた、つまり土塁そのものが人の手でつくられたとみて間違いない。ではこの土塁の目的は何だろうか?
文献調査がまだ不十分なので、真相が分かり次第訂正するが、現地を見る限りでは3つの推測が成り立つ。

■推測1: 砲台建設とあわせて弾薬庫を建設し、周囲に土塁を築造した。後に弾薬庫は取り壊され、跡地に発電場が建った。つまり、土塁は弾薬庫の爆発事故に備えた施設だったという説。
■推測2: 発電所建設時に、目隠しのために土塁を築造したという説。
■推測3: 発電所建設後の戦時中に、爆撃された際の被害を軽減するため土塁を築造したという説。

推測1については、似島などの弾薬庫跡の土塁に酷似していることが根拠だが、トンネルのコンクリートは昭和期の築造のように見えるため、推測3あたりが正解かもしれない。
(1)発電場跡

#4:発電場跡の外観。大小2つのボリュームが連結されている。壁面のMAG(マガジン)とは、朝鮮戦争時にアメリカ軍が弾薬庫として使用した際に書かれたものという。(拡大
現存する中では最大の廃墟で、土塁に囲まれて建っている。毒ガス工場の稼働にあわせて建設されたとあるので1929年頃の竣工と思われる。

重油炊きのディーゼル発電所で、当初は240V発電機3台、1933年には3300V発電機3台、さらに1934年には2台を増設し、計8基態勢となった。1941年からは本土側から海底ケーブルで受電した電力も使われた。(対米戦が始まり重油の供給に懸念が生じたのも海底ケーブル敷設の一因だったようである) 1944年頃からは、女子動員学徒による風船爆弾の製作場としても使用された(発電所前に仮設建物を建てて製作場としていたとの説もある)。戦後は発電機が撤去され、朝鮮戦争時には米軍が弾薬庫として使用したという。

建築としては、端正なモダニズムである。機能がフォルムを規定する、つまり発電機から必要なスペースが決まり、建築の形につながっている。ただ、発電所にこれほど多くの窓が必要とも思えないため、軍事施設ながらモダニズム建築を作ろうという明確な意図が込められているように思えてならない。
写真からも分かるように、建屋は大小二つのボリュームで構成されている。まず1929年に小さい建物が建ち、1933年に能力増強のため大幅に増築されて現在の形になったらしい。
外壁各所の不自然な青色の模様は戦時中の迷彩塗装の跡とみられる。また、「MAG2」との表記は米軍が弾薬庫として使用した際に書いたものとされる。MAGとはマガジン、つまり弾倉を指す。

内部は思ったより明るく、広い。床にはガラス片が散乱し、ところどころに落書きがある。
とにかくこの巨大な無柱空間は圧巻の一言で、モダニズムというのは自然の中に埋もれているのが最も美しいのでは?と思えるほどだ。ただし、柱は非常に細く、壁が薄く開口部が多い、しかも鉄筋が露出し腐食が進んでいるため、耐震性には明らかに問題がある。また、ここは毒ガス工場ではなかったが、それでも残留化学物質の懸念がゼロではないので、壁などに触れるのは避けた方がよい。
なお、現地は柵が巡らされており立入禁止と書いてあるので、中に入る判断は自己責任で行うこと(
[注意事項]を参照)。

現在の管轄は環境省だが、保存のための改修工事等は行わないという。つまり、朽ち果てるに任せるということらしいが、個人的には、歴史の生き証人として、また建築としても保存すべきではないかと思う。

#5:内部空間。

往時の様子(現地案内板から引用)

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(2)南部砲台跡

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発電場跡から道なりに小高い丘に登っていくと、南部砲台跡に出る。3箇所の中では最も小ぶりで、1900年に竣工、24cm砲4門と9cm砲4門が置かれていたという。台座は石造(おそらく花崗岩)で、レンガを積み、さらに上部はセメントで固められている。その施工水準はかなり高い。
(3)中部砲台跡

#23:中部砲台。南部と比べて一回り大きいことが分かる。階段脇のくぼみは砲弾置き場であろう。(拡大
中部砲台は山頂付近、送電線の鉄塔近くにある。1901年に竣工し、翌年には主力の28センチ砲が6門据え付けられ、海峡に睨みをきかせていた。
大阪砲兵工廠で開発された28センチ砲は大口径・高性能の砲であったため、日露戦争が始まると前線に近い鎮海湾や対馬などへ移設することになった。大久野島も6門全てが移設となり、うち2門は急遽旅順へ送られ、旅順攻略戦や旅順艦隊攻撃に使用されたようである。このように備砲は実戦に使用されたが、芸予要塞そのものはついに実戦を経験することはなかった。

中部砲台の台座も石造でセメントが多用されている。現存する明治期の砲台としては非常に保存状態が良く、全国的に見ても貴重な遺構といえる。

砲台の脇には兵舎(砲戦時の仮眠用と思われる)がある。主要構造はレンガ(ロシア製との伝説があるが真偽は不明)で、コンクリート(おそらく無筋だろう)のアーチで屋根をかけている。当時の技術水準で考えつく限り強固に作ったということが空間からもうかがえる。

これらの施設は後に毒ガスの原料・製品倉庫としても使われたという。

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#28:中部砲台近くの展望台からの眺望。(拡大
(4)北部砲台跡

#29:12センチ速射砲跡。開口部を見ると木サッシが一部残っていた。(拡大
北部砲台は南部砲台と同じく1900年に竣工し、24cm砲4門と12cm砲4門が置かれていた。

観測所も含めて要塞時代の姿をよく残している。現在広場状に整備されている箇所(写真#30)には当初発電施設があったが、毒ガス生産が始まるとタンク群が置かれた。さらに、通路を設けるため砲台の一部が破壊されているほか、砲台自体にもタンクが設置された。タンク基部は一部が現存する(写真#32)。

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(5)火薬庫跡

#34:火薬庫の入口。屋根は現存しない。(拡大
明治期に建設された火薬庫。壁はレンガ、屋根は木造で瓦葺きだった。爆発事故の際に爆風を上方へ逃がすため、ここに限らず火薬庫の屋根は軽く作るのが定石であった。
海岸近くに建つが、間には土塁が築かれており、遊歩道からは見えにくくなっている。おそらく爆風避けと目隠しを兼ねたものだろう。

この建物も発電場と同様、朝鮮戦争時に米軍が弾薬庫にしたらしく、壁に「MAG1」との表記が見られる。

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(6)長浦貯蔵庫跡

#39:貯蔵庫の内部。黒いのは火炎放射器で毒素を焼却処理した痕跡。(拡大
山に埋もれる形で建設された、島内最大の毒ガス貯蔵庫。コンクリート製台座の上には直径4m、高さ11mの巨大なタンク(容量85t)が6基置かれていた。戦後、進駐軍の指示の下で、火炎放射器を使用した残留毒素の焼却作業が行われた。黒くすすけているのはその痕跡である。

無毒化作業から既に60年以上経過しているが、それでも壁などに触れるのは避けた方が無難だ。現地では立入禁止と書いてあるので、中に入る判断は自己責任で行うこと([注意事項]を参照)。

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その他の遺構

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島内には他にも様々な遺構がある。

・当時のトイレが一部現存している。(写真#44)
・毒ガス貯蔵庫跡は土砂で半分埋められている。(7・写真#45)
・日本庭園の跡とされる一角がある。(8・写真#46)
・グラウンドの奥に野ざらしタンク跡が、基部のみ残る。(9・写真#47)
・休暇村本館の横にも貯蔵庫跡がみられる。(10・写真#48)
・研究室跡(11・写真#49)
・検査工室跡(12・写真#50)
・毒ガス資料館の屋外展示では陶器製の配管類が置かれている。(写真#51)
[補注]
(1) 陸軍の大久野島の他、海軍の相模海軍工廠でも生産されていたが、実戦使用したのは陸軍のみとされる。
(2) 毒ガスはアメリカ軍のような装備の整った相手に使っても効果がないため、主に大陸で使用されたものと思われる。

[参考文献・サイト]
1) 毒ガス島歴史研究所・おおくのしま戦争遺跡の保存を進める会(2001)「大久野島遺跡めぐり」
2) 大成経凡(2005)「しまなみ海道の近代化遺産」 創風社出版
3) 環境省報道発表資料(平成9年12月20日)大久野島土壌等汚染処理対策(中間報告)について
4) 2004年8月12日付「中国新聞」記事 大久野島の毒ガス関連遺跡 発電場跡を一般公開へ

[回り方ガイド]
・JR「忠海(ただのうみ)」駅から徒歩10分で忠海港。そこから高速艇またはフェリーで15分ほどで大久野島2番桟橋に着く。なお、大三島からのフェリーもある。
・連絡船の時刻にあわせて、2番桟橋から休暇村まで無料の送迎バスが運行している。
・島内は自動車走行禁止なので、車で行く場合は忠海港の駐車場か大久野島2番桟橋前の駐車場に停めることになる。
・島内を回るには自転車が最も効率がよい。ただし一部の道は階段があり通行できない箇所があるのと、アップダウンが多いので注意。レンタサイクルは休暇村で行っている。
・休暇村の建物内にはレストランがあり食事には困らないが、休暇村以外に自動販売機などはないので、夏場は熱中症対策のため必ず飲み物を持っていくこと。
作成:2002/11/1 最終更新:2012/3/24
作成者:makoto/arch-hiroshima 使用カメラ:NikonD90 (一部写真はNikonD70)
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