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006 軍都としての
都市の記憶を巡って・その1
戦後、広島城の広大な陸軍用地は公園や市街地に形を変え、陸自の駐屯地は郊外の海田に置かれ、広島デルタから軍事色は一掃された。どんなに冷ややかに見られようとも盲目的絶対平和主義を叫ぶ地域性は世界的に見て極めて貴重で、守っていくべきだと思う。ただ、軍都としての広島を否定するのは構わない(私も肯定するつもりなどない)が、もみ消したくはない。
地霊・土地の記憶についてはこちらに譲るとして、ここでは結果としてどういう建築が残ったのか、残り僅かとなった地霊の片鱗を辿ってみたい。

INDEX
  1. 歴史的背景
  2. 宇品新開に残る遺構
  3. その他の遺構
  4. 「軍都としての景」を体感する


1.歴史的背景

宇品築港と宇品新開
都市広島の近代化は県令(*1)千田貞暁(せんださだあき)による宇品(うじな)干拓事業と共に始まる。近代的な港湾と広大な工業用地を一挙に獲得する野心的なプランであり、士族に職を与える意味もあった。当初予算を遙かに上回る巨額の費用、漁民の抵抗運動など決してスムーズには進まなかったが、ともかく1889年(明治22年)に宇品港および宇品新開は完成する。
完成した当初は不釣り合いに立派な港と揶揄されたが、その直後に広島にとって運命的な事件が発生する。日清戦争(1894-95年)の勃発である。

臨時首都としての広島
明治政府は戦争遂行のための拠点を広島と決定した。これは
  1. 補給拠点と司令部は前線に近い方が望ましい。
  2. 国内輸送に必要な鉄道が開通している。(当時の山陽鉄道は広島が終点であった)(*2)
  3. 補給物資の積み出しが可能な近代港湾が整備されている。
  4. 物資の生産や貯蔵に必要な土地がある。
という理由であり、近代戦争で最も重視されるのが情報と補給であることを鑑みれば、当時の貧弱な技術水準からみて妥当な判断と言える。

#1:広島における陸軍用地
こうして、広島城の第5師団に大本営(総司令部)が置かれ、広島駅から宇品港までの支線(宇品線)が突貫工事で敷設された(*3)。宇品港には陸軍運輸部(*4)が建設され、輸送補給を統括した。さらに明治天皇が広島城に入城し、帝国議会も西練兵場に仮議事堂を建設した。こうして広島は臨時帝都となり戦争遂行に協力した。
さらに10年後には日露戦争が勃発。デルタ内には陸軍三支廠(兵器支廠・被服支廠・糧秣支廠)を始めとする軍関係の施設が続々と建設され、陸軍に強く依存した軍都へと変貌していく。
2.宇品新開に残る遺構
宇品は戦災を免れたため、往事の街区割とともに比較的多くの遺構が残っている。

■千田廟公園(千田神社) マピオン地図 … 写真#2, #3
千田は私財をも投じて宇品干拓に取り組んだが、新潟県令に左遷されてしまう。
死後にその功績を称える銅像が立てられ、ついで千田廟が建立された。宇品新開こそが都市広島の近代化が成った原動力であったことが窺え、相当に気合いの入った造りになっている。

#2:千田翁を称える銅像(千田公園内)

#3:宇品新開の記念碑
■旧日清戦争凱旋碑 … 写真#4
宇品には日清戦争時に帰還兵士を出迎えるための凱旋門(パリの凱旋門に似せたもの)が仮設され、戦争後の1896年にこの「日清戦争凱旋碑」が建設された。かつてはこの道路を多くの兵士が行き交ったことだろう。
詳細はこちら

#4:現在の名前は平和塔
■宇品波止場公園(陸軍桟橋) マピオン地図 … 写真#5, #6, #7
宇品駅からすぐ、海に突き出た突堤は「陸軍桟橋」と呼ばれていた。現在は埋め立てられて宇品波止場公園となっており、石積だけが残されている。公園内には宇品線のレールが置いてあるが、とても往事の規模を窺い知ることはできない。やらないよりはましな程度と言える。

余談だが、他の都市と同様、この旧宇品港は現役の港湾としては役割を終えつつあり、県営倉庫のコンバージョンなどの展開が見られる。詳しくはこちら





#5:突堤の石積が残る

#6:宇品波止場公園内にある、宇品線の記憶を伝えるモニュメント

#7
■宇品中央公園(宇品凱旋館) マピオン地図 … 写真#8, #9
宇品駅にほど近い場所に、軍人の歓送迎会場などのために建てられたのが宇品凱旋館(1939年竣工・RC造3階)。被爆時にも軽微な被害に止まり、1970年に解体された後、現在は公園となっている。


#8:宇品中央公園

#9:陸軍運輸部船舶司令部とある。
■旧国鉄宇品線跡
往事は昼夜を問わず軍用列車が行き交っていた。だがこれだけでは輸送力が足りなかったらしく、急遽路面電車に新線が建設された。これが現在の広電比治山下線である。

かつて日本一の長さを誇った宇品駅ホームも全て撤去されてしまい、鉄道施設は全く残っていない。
ただし、どこまでも続くグリーンベルトを見ることはできる。

ポイント1:広島南警察署周辺 マピオン地図 … 写真#10, #11

ポイント2:段原地区 マピオン地区 … 写真#12


#10:南署周辺から南側の廃線跡を見る

#11:宇品線の線路を使ったモニュメント

#12:段原地区に残る廃線跡
■陸軍三支廠の現状
広大な敷地を占めていた陸軍三支廠は被爆時にも倒壊せず、戦後も使われ続けた。現状について簡単に記しておく。

●兵器支廠 マピオン地図 … 写真#14
宇品線に沿って広大な敷地を持っていた兵器工場。赤レンガ建築群は比治山の影になって倒壊を免れ、戦後はそのまま広島大学病院として使用された。現在は当時の建物は一つも残っておらず、レプリカの建物が建っているだけだ。

●被服支廠 … 写真#15
軍服・軍靴を製造した工場の跡。現存する倉庫は国内最古級のRC建築。現在は何にも利用されず建っている状態。詳しくはこちら

●糧秣支廠 … 写真#13
缶詰工場だった建物の北側は取り壊され、シンボルの大煙突も撤去された。南側は郷土資料館として使用されており、唯一見学可能。詳しくはこちら

#13:郷土資料館(旧糧秣支廠)

#14:広大病院(兵器支廠跡地)

#15:旧被服支廠
3.その他の遺構

■工兵橋 マピオン地図 …写真#16
工兵隊から射撃場に行くために建設された。現在の橋は戦後に架け替えられたられたもので、名前だけを残している。

■原爆ドーム(広島県物産陳列館/産業奨励館) …写真#17
戦争と共に勃興した県内産品の販促拠点として建てられたのが産業奨励館、現在の原爆ドームである。大連、新京、ハルピンなど大陸に出張所が置かれていた。

■頼山陽文徳殿
詳細はこちら。

■第二陸軍病院跡 マピオン地図 …写真#18
デルタの河岸緑地にはこういう箇所がいくつかある。かつては河岸ギリギリまで建物が建っていたことが分かる。


#16:工兵橋

#17:旧広島県物産陳列館

#18:第二陸軍病院跡

#20:大本営跡の碑。「史跡」の二文字が消されている。
■広島大本営跡 マピオン地図 …写真#19, #20
広島城の本丸に基礎だけを残している。
よく見ると、碑が立っており、「明治二十七八年戦役廣島大本営」とある。その上を見ると二文字消されていることが分かるが、そこにはかつて「史跡」の二文字が彫ってあったという。


#19:大本営跡。
■比治山陸軍墓地 写真#21
詳細はこちら。


#21:比治山陸軍墓地。一度破壊され再整備されたので戦前の姿とは全く違うが、ともかく存続している。
4.「軍都としての景」を体感する

戦前の、平時の軍都とはどんな景を持っていたのか、一つの答えを善通寺(香川県)に見つけた。
善通寺に陸軍(第11師団)が置かれたのは広島より後であるが、旧陸軍用地がそっくりそのまま自衛隊に引き継がれており、赤レンガ建築も現役だ。ふと見てみると練兵場では新兵が ほふく前進とかしているし、迷彩服の軍人がその辺を歩いている。もちろん監視の目が光っているので写真を撮ってると速攻で声をかけられる。私にとっては相当に違和感のある景だが、おそらく善通寺の市民にとって軍隊は「生まれる前からここにいた存在」であるはずで、その景は百年以上続いてきた日常風景そのものだ。

戦前の広島は、大都市とはいえ現在のようなメガシティではなく、ヒューマンスケールで、もっと時間がゆっくり流れていたはずだ。かつての広島も平時はこんな感じ、異様な集団が町中にいるけど、もうそれは生活景の一部で、市民はそれを受け入れ同居していて、どことなくのどかな感じ…だったのかなと思う。今は無き「オールド広島」に少しだけ触れた気がした。

#22:ここでは旧軍の赤レンガ建築がいまだに現役を張っている。敷地の周囲ではスウェットスーツに身を包んだ軍人の方々が大勢ランニングしている。(善通寺駐屯地)

#23:(C) 小だまたけし「平成イリュージョン」メディアワークス刊 pp15をトリミング(*5)。 第二次大戦がなく軍都のまま1994年になった広島という、ある意味かなりマニアックな設定の漫画。
[補注]
(*1) 県知事のこと。ただし現在の県知事が直接選挙で選ばれる"地方大統領"であるのに対して、県令は中央政府が派遣する"国司"であった。
(*2) 1894年6月に山陽鉄道「糸崎」−「広島」間が開通した。日清戦争の宣戦布告は同年8月。直後に宇品線が建設され、9月には首都機能が広島に移転した。日清戦争の講和条約は翌1895年の4月。
(*3) 広島駅から宇品港への大量輸送のため、僅か17日間で開通させたとされる。戦後も1972年までは旅客輸送に使われていた。
(*4) 正確に言うと、運輸部という名称が付いたのは1923年以降である。沖合の金輪島に造船所を持ち、輸送船の建造・修理が可能だった。
(*5) 漫画著作物からの引用については、いわゆる「脱ゴーマニズム宣言」事件に関する判例(東京高裁平成12年4月25日)があり、引用の原則を遵守していれば法的に問題のないものと理解している。

[参考文献・サイト]
1) 広島平和記念資料館ウェブサイト http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
2) 小だまたけし(2000)「平成イリュージョン」メディアワークス刊
3) ウィキペディア「広島駅」
作成:2005/1/20 最終更新:2007/6/13
作成者:makoto 使用カメラ:NikonD70, CanonPowerShotG3
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