広島平和記念資料館および平和記念公園

丹下健三 1955

復興広島や建築家丹下健三のみならず、戦後の日本建築はここから始まったといっても決して過言ではない、記念碑的な建築である。日本におけるモダニズム建築の傑作でもあり、重要文化財であるとともに、DOCOMOMO Japanによるモダニズム建築100選にも選ばれている。
ここでは、文献および考察に基づき、「1 丹下と広島」「2 都市を方向づける軸」「3 慰霊と平和」「4 スケール」「5 現状と今後」の5つの話題について見ていくことにしよう。なお、文中では主観を排除していないことをあらかじめお断りしておく。事実誤認などあればぜひご指摘頂きたい。

[ご注意] 当サイトの文章は一部推測を交えて主観に基づき書かれており、一つの切り口を示すものに過ぎません。レポートや論文の参考とする場合には、当サイトの文章だけでなく、必ず一次資料を読むようにしてください。コピペはやめましょう。




1 丹下と広島

#1:丹下の母校である旧制広島高校の講堂(現存)

#2:ソビエトパレスの設計コンペにおけるル・コルビュジェ案。(CC対象外)

丹下健三が多感な青年期を広島で過ごしているのはあまり知られていない。
愛媛の今治中学を出て旧制広島高校に進学していた丹下は、進路を決めかねている中、学校の図書室である建築と出会う。それこそがル・コルビュジェのソビエトパレス(*1)であり、衝撃を受けた丹下は建築の道に進むことを決めたという。なお、旧制広島高校は現在広大附属中高等学校となっており、当時の建物では講堂が現存している。
東京帝大を出た丹下は前川國男の事務所に勤務するが、戦時体制に入り仕事が激減すると大学に戻り、広場や都市デザインの研究に打ち込む。その成果が「大東亜建設記念営造計画」コンペでの一等獲得であり、 実作の経験こそ少なかったものの、建築界の注目を集める存在になっていた。
そして終戦間際、父の訃報を受けた丹下は今治の実家に向かい、その道中(尾道で汽車から船に乗り換える時らしい)で広島全滅の報を聞く。たどり着いた今治は広島と同じ8月6日に空襲を受けて壊滅しており、残された母も亡くなっていた。

終戦直後、戦災復興院の委嘱をうけたとき、私は率先して広島担当を申し出た。当時、草さえも一本も生えぬであろうなどとうわさされていた広島だったが、私はたとえわが身が朽ちるとも、というほどの思いで志願した。楽しい高校生活を送った土地であると同時に、父母をほぼ同時に失ったそのときに、大難を受けた土地であることに大いなる因縁を感じていたからである。
(丹下健三・都市・建築設計研究所サイトより引用)

様々な流言により広島行きをためらうものもいる中、丹下は大谷幸夫ら大学のスタッフを連れて焦土と化した広島に乗り込み、まず復興都市計画の立案、ついで世界平和記念聖堂コンペ、本作のコンペと関わっていくことになる。


2 都市を方向づける軸

#3:ピロティを通して慰霊碑、原爆ドームが見える。

#4:原爆ドーム側から

広島市は旧中島地区を記念公園として整備することを決め、1949年、広島のみを対象に国家予算と国有地の拠出を求める「広島平和記念都市建設法」の国会議決を待ってコンペをスタートさせた。対象地区は旧中島の三角形のエリアおよび原爆ドーム周辺で、平和記念公園および平和記念館を設計する。
コンペの結果は1等・丹下健三、2等・山下寿郎、3等・荒井龍三となった。丹下は幅員100mの平和大通り(*2)と直交し原爆ドームに向かう景観軸を定め、その軸上に慰霊碑を、後方にゲートとしての資料館を計画した(写真#5)。資料館は平和大通りから原爆ドームへの視線を遮らないよう、ピロティにより空中に浮かせる形とされている。つまり資料館のピロティは造形的に優れている以前に、グラウンドレベルで景観軸を通すという重要な機能を持っていることになる。これほど明確で重要な機能を与えられたピロティは世界を見回してもあまりないはずだ。
審査員を務めた岸田日出刀のコメント。

(略)- そしてこの軸の正しいとり方は、周囲の都市計画的諸要素との関連において決定されるべきものであり、この点本案は巧みな解決案を提示している。-(略)- 川越しに遠く元産業奨励館の絵画的な残骸を望むヴィスタの効果をねらった本案の計画は、なかなか非凡である。
(吉田研介ら(1995)「建築設計競技選集1945-1960」メイセイ出版 より引用)

#5:1~3等の比較

せっかくなので丹下案以外についても見ておこう。2等の山下案は平和公園を周囲の都市構造や100m道路とは切り離し、景観軸を東に向けている。都市に良質なストックを追加するというよりはランドスケープ単体での造形を追求した印象を受ける。3等の荒井案では景観軸は三角形の敷地の頂点を狙っており、軸の先に原爆ドームはない。そしてどちらの案も旧西国街道のラインを消し去っている。本来ランドスケープ設計に正解などないはずだが、素人目に見ても丹下案が「正解」でその他は「不正解」に見えてしまう。
今ならアーバンデザインの際にはまずアイストップを捜し、そこに向けた景観軸を作り、必要な建築や動線を配していくのは普通に行われているから、「原爆ドームを狙って軸を作るなんて当然じゃん」と思うが、当時はどうやら丹下以外誰もこの「正解」に気付かなかったようだ。
与えられた敷地だけを見るのではなく、都市全体を見据えてデザインする…。その衝撃は、後進の建築家たちに都市的なスケールで建築を考えるという発想の転換を促し、菊竹清訓や黒川紀章らによるメタボリズムや、丹下自身がプロデューサーを務めた大阪万博へと発展していった。

さて、この軸をめぐるアイディアが出てきた過程について、藤森照信、松葉一清氏がインタビューした時の記録を以下に引用する。

藤森・松葉: 先生の計画案のすごいところは、100m道路と直交して原爆ドームを望む軸を通したところですが、それを思いつかれた時の記憶はありますか。
丹下: はっきりしていません。都市計画的に見て、100m道路がやはりベースになる。それからこの敷地の北東から45度の角度でここを横断する道は広島の銀座だった道で、交通路として残したい。100m道路の両端の橋は別として、橋が三つもあって重要な交通路となっている。それらをどう連結するか難しいわけです。それから原爆ドームをどう扱うかはなかなか出てきませんでした。しかし最終的に、100m道路と垂直な軸を基本にして展開しようと…。でもだいぶ後になって気がついたんです。最初から気がついたわけではない。
藤森・松葉: 何案かつくられたのですか。
丹下: 何案か並行でつくるというのではなくて、ゴシャゴシャやっているうちにパッと出た。私はこの形が好きでしてね。
藤森・松葉: この[広場を中心とする]つづみ形[の道路パターン]ですね。
丹下: 戦争中のコンペでも使っているんです。このつづみ形を使うと、敷地の中のネットワークができて、さらにセンターができるということが、だんだん分かってきましてね。そしたら、このセンターとドームを結ぶと100m道路と直角になるんじゃないか、ということで決まったと思います。このつづみ形を探し出したとき、何か解けるような感じがしたんです。そうするとメインのアプローチはここだ。広場にはゲートから入るようにしたい。じゃあ陳列館をそのままゲートにしようということで、ピロティで上げたんです。
藤森・松葉: 最初は道をどう付けるかという都市デザイン的なところから入っていかれ、それから個々の建物に進まれたわけですね。
丹下: はい。
(丹下健三+藤森照信著「丹下健三」新建築社 pp139 より引用)

#6:丹下案の形成過程

#7:大東亜記念営造計画(180度回転)CC対象外

#8:ル・コルビュジェによるソビエトパレス(CC対象外)

丹下は戦前の広島の繁華街がどこにあったかもよく知っていたから、旧西国街道だけでも土地の記憶を残そうとした。つまり、この道路と相生橋(T字形の橋)から伸びてくる道、そして100m道路に原爆ドームが与条件となる(上図のphase1)。 そこで、台形を二つつないだような「つづみ形」の道路をこの敷地に当てはめてみる(phase2)。 すると、ちょうどセンターに原爆ドームから100m道路に垂直に伸びる軸が見えてくる(phase3)。 この軸をしっかりと定めた後で必要な建物を配置し、プランをまとめていった(phase4)。

この「つづみ形」の起源については、丹下がインタビュー中でも明かしているように、戦争中のコンペ、すなわち「大東亜建設記念営造計画」とみて間違いないだろう。軸線と「つづみ形」とが平行ではなく直交しているが、全体的な配置計画は平和記念公園と酷似している。
そして、「つづみ形」についてさらにさかのぼると、あの「ソビエトパレス」にたどり着く。平和記念公園のコンペ時の模型を見るとよく似た大アーチがかかっており、その影響は明らかだ。つまり、丹下はル・コルビュジェと出会った広島の地に、その影響に基づくデザインの実作を打ち立てたということになる。
一方、そもそも「ソビエトパレス」はスターリンの威光を示す建築であり、「大東亜記念営造計画」は日本が15年戦争時に掲げた大東亜共栄圏を強く連想させる施設である。イタリアのエウルと違ってこれらは実現しなかったが、全体主義が吹き荒れる中で生まれたデザインといえ、それが形を少し変えて平和記念都市のシンボル空間となったのは皮肉めいたものを感じる。ただ、コルビュジェにせよ丹下にせよ与条件に沿ってプランを考えたに過ぎないともいえ、人々がある一つの考え方のもとに同じ方向を向くという目的においては、これが普遍的な正解だということなのかもしれない。

#9:厳島神社

もう一つ、発想の源になっていると思われるのが、神社の配置計画だ。ゲートとしての資料館をくぐり、ヴィスタを感じながら慰霊碑へ進むと、そこからは原爆ドームが見え、市街地のビル群が見える。この空間体験は神社のそれに似ている。 同様の見解は鈴木博之氏が著書の中で述べているので引用する。

(略)- 原爆ドームからHPシェル型の慰霊碑を経て、平和記念資料館のピロティの間を貫いて延びる軸線は、厳島神社の弥山から本殿を経て海中の鳥居にいたる一本の軸線とまったく同じ性格を秘めているからである。厳島神社の本殿が弥山を背負い、さらに厳島全体を負っているのと同様に、慰霊碑は原爆ドームを背負い、そのドームはさらに広島の町全体を負っているのである。
(鈴木博之著「日本の<地霊>」講談社 より引用)

一種の解釈論ではあるのだが、インターナショナルでありながら日本的なる表現が埋め込まれているというのは説得力がある。

#10:資料館の北面

ところで、余談であるが、「つづみ形」は記念公園の園路だけではなく、資料館の展示フロアの内壁にも埋め込まれている。また、ピロティの柱をよく見てみると、横一列ではなく微妙に前後していて、やはり「つづみ形」を描いている。丹下自身がじっくりと設計しているだけのことはあり、シンプルな箱のように見えて、なかなかに奥が深い。


3 慰霊と平和

#11:慰霊碑の背後の池は人が軸線上に立ち入らないための工夫でもある。

#12:資料館のファサード

#13:東京都慰霊堂(旧称:震災記念堂)。伊東忠太による明確な和風のデザイン。これ自体は近代和風建築の名品であり、決して駄作ではない。

現在でも新聞等で日本政府のコメントと広島・長崎市のコメントが併記されることがある。そしてえてして両者の間には明確な温度差がある。歴代の広島市長は一政令市の首長の職務レベルを超えた独自外交に近いことを行っており、その主張は黙殺されるとはいえ、「かの有名な"HIROSHIMA"の市長の言葉」は世界に対して一定の影響力を持っている。 「平和の門」でも書いたように、盲目的な恒久平和論(時に現実逃避と批判されるが)を展開していくと行き着く先はインターナショナリズムである。そこに国家・民族・宗教などという要素は何ら意味を持たない。資料館の意匠は、確かに伊勢や桂から着想を得ているが、あからさまな日本的エレメントは盛り込まれていない。丹下は設計に際してどこの国のものでもない人類共通の建築様式、インターナショナル・スタイルを採用し、ル・コルビュジェの造形にそのヒントを求めた。

その頃は、むしろ慰霊堂を中心とした平和記念塔のようなモニュメントを建設しようとする動きの方が強かったのであった。当時市の顧問であった英軍建築家は、盛んに五重塔のごときものの建設を主張していた。私は彼の訪問を受けたとき、東京の震災供養塔に彼を案内し、あなたたちはこのようなものが欲しいのかと激怒したことを記憶している。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正)

英軍建築家とは、広島市の復興顧問として活動したオーストラリア軍建築家のジャービィ少佐(S.A.JERVIE)と思われる。
ここで注意すべきは、丹下が目の敵にしている震災記念堂(写真#15, #16)と広島ピースセンターは根本的に性格が異なることだ。前者は関東大震災による死者を弔うための建築、すなわち「慰霊施設」であって、「もう地震が来ませんように」と祈る場所ではない。そもそも地震は天災なのだから祈っても意味がない。一方、後者は戦災による死者を弔うと同時に、「もう戦災がありませんように」と祈ることが目的となっている。戦災は天災ではないから人々の気持ち次第で防ぐことができる。

平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならないものである。平和は自然からも神からも与えられるものではなく、人々が実践的に創り出してゆくものである。この広島の平和を記念するための施設も与えられ平和を観念的に記念するためのものではなく平和を創り出すという建設的な意味をもつものでなければならない。
わたし達はこれについて、まずはじめに、いま、建設しようとする施設は、平和を創り出すための工場でありたいと考えた。
(雑誌「建築雑誌(新建築)」1949年10月号より引用|一部仮名遣いなど修正)

ピースセンターは慰霊というよりは平和を創る工場が主目的で、そこにインターナショナル・スタイルを採用する必然性があるのかもしれない。
なお、慰霊機能は完全に無くなったわけではなく、公園の中心に慰霊碑を置くことも決めている。この慰霊碑については、幻のイサム・ノグチ案の話題などあるため、別ページにて扱いたい。

しかし、このような判断にもかかわらず、わたくしの心情は、迷わざるを得なかつた。慰霊堂を含む記念塔を、広島の人々が求めていることのなかに意味があるように思えるのであつた。無垢の犠牲者を、父や母や、妻や子にもつ広島の人々の希いにたいして、何か慰霊し、祈念するための施設を、ささやかなものであるにしろ、もちたいと感じたのである。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正)



4 スケール

#14:丹下はピロティの階高6498mを「社会的人間の尺度」、踊り場の階高2482mmを「人間の尺度」と表現している。

#15:ピロティの造形

#16:マルセイユのユニテ・ダビタシオン(ル・コルビュジェ)のピロティ

#17:断面図。階段踊り場は人間の尺度2482mm、ピロティは社会的人間の尺度6498mm。(背景図出典:広島平和記念館と丹下健三(山崎荒助 編・三友社出版・1980))CC対象外

#18:平面図。階段踊り場は人間の尺度2482mm、ピロティは社会的人間の尺度6498mm。そして、階段とピロティの接続部は両者の中間である4016mm。梁のラインが斜めに入っており「つづみ形」を描いているのにも注目したい。(背景図出典:広島平和記念館と丹下健三(山崎荒助 編・三友社出版・1980))CC対象外

#19:階段踊り場

平和記念資料館については、スケール感についても注目して鑑賞したい。というのも、戦前の広島は大都市とはいえ低層でヒューマンスケールの都市であり、大きな建築といえば福屋百貨店くらいのものであったためだ。
戦災によりこの”グラウンド・ゼロ”には本当に何もなくなり、そこに建てられたのがこのヒューマンスケールを遙かに超えた大建築である。そのインパクトは現代からは想像できないほど大きなものであったに違いなく、その多くは賛意ではなく反発であったことだろう。
丹下は戦後の日本では建築のスケールは巨大化していくと確信し、「ヒューマンスケールからの脱出」を訴える。焦土と化した都市を蘇らせるにはチマチマした建築ではダメで、「人間の尺度(=ヒューマンスケール)」を超えた「社会的人間の尺度」による大建築こそ必要であると説く。

わたくしはローマで神々の尺度によって建てられた建築の前で感動した。そこを発ってロンドンに着いた日のことをグロピウスにたどたどしく語った。グロピウスは、近代建築は人間の尺度によって建てられなければならないことをこんこんと語った。-(中略)-しかしその時、わたくしはすでに広島の陳列館で、人間の尺度を超えた尺度を採用していたのである。わたくしは、それを近代社会における群衆の尺度、高速度交通の尺度を考えているのであった。-(中略)-その後、コルブジエのマルセイユのアパートを訪れて、社会的人間の尺度とでも言うべき尺度によって構成されているピロッテイの下に立って、感動した。-(中略)-そうして日本に帰ったとき、丸の内や銀座の1階の家並みは、余りにも人間的であることに驚いた。その矮小さは、わたくしを圧迫し息苦しくさせた。それは余りにも非社会的であった。わたくしにはむしろそれが前近代的に思われた。-(中略)-わたくしは気掛りになって広島の現場に建設中の陳列館を見に行った。そうしてわたくしの意図がさほど間違ってはいないことを感じた。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正)

丹下健三が初めて海外に行ったのはコンペで当選した「広島計画」をCIAMの大会で発表するために(ローマ経由で)ロンドンを訪れた時であるというから、この文章はその時のものであろう。グロピウスとはバウハウスの校長を務め、インターナショナルスタイルの提唱者でもあるヴァルター・グロピウス(Walter GROPIUS/1883-1969)、マルセイユのアパートとは「ユニテ・ダビタシオン」を指す。 グロピウスは丹下にヒューマンスケールの大切さを説き、丹下はそれを前近代的と切り捨てる。そして欧米を巡り再び広島の現場を見たときに自分の考えの正しさを再確認する。日本建築の脱ヒューマンスケール化の先頭に立つ、まさに開拓者だったことが伝わってくる。ただし、住む家さえ事欠く極貧生活を送る人が多い中このような大建築を作ることには猛烈な反対があったことも事実で、丹下自身も葛藤があったと述べていることを付記しておきたい。
ところで、本作のピロティの柱については、コンペ時点では細い丸柱が等間隔で立っているだけのものであったが、当時建設中だったユニテ・ダビタシオンを参考とし、さらに伊勢神宮の力強さ(大地から立ち上がってくる感じ)を加えた結果、厚みのあるフォルムへと変わっていった。(写真#15)

では、人間の尺度と社会的人間の尺度について、もう少し詳しく説明しよう。丹下は両者の対位により建築を構成しようとしたと述べている。

わたくしは、広島の平和会館の実施設計にあたって、人間の尺度と社会的人間の尺度の二つの尺度の対位によって建築を構成してみようという野心をもっていた。最初に取りかかった記念陳列館では、社会的尺度による主構造にたいして、人間の尺度をもつ階段の踊場の流れや同じく人間の尺度による鳥籠構造をなすルーバーが交錯してゆくものであった。
(雑誌「新建築」1954年1月号より引用|一部仮名遣いなど修正)

具体的な数字は、10514 / 6498 / 4016 / 2482 /1534 / 948 / 586 / 362 / 224 / 138 / 86 となっている。これら数字は適当に設定してあるのではなく、ある数字はその直前の二つを足した数字になっており(例えば、6498 = 4016 + 2482 のように)、これをフィボナッチ数列という。ル・コルビュジェによる「モデュロール」と同じやり方であり、これは”丹下版モデュロール”ととらえていいだろう。
丹下は2482mmを人間の尺度、6498mmを社会的人間の尺度とした。断面図を見てみると、資料館のピロティ階高は6498mmとある。スラブ等で1534mm(2482の一つ下の値)を引くと4964mm、これを2で割ると踊り場の高さ2482mmとなる。(厳密には踊り場の天高は2482mmではない)
ちなみにスパンは10514mm(6498の一つ上の値)である。
続いて平面図を見ると、階段踊り場の幅は2482mm。階段とピロティの接点は4016mmであり、これは人間の尺度2482mmと社会的人間の尺度6498mmの間の数字である。ちなみに建物自体の奥行き(たぶん柱芯)は17012mmで、これは社会的人間の尺度6498mmとスパン10514mmの和である。実に緻密にフィボナッチ数列が埋め込まれているものだと驚かされる。

ここまでの記載で分かるように、これら”丹下版モデュロール”が一番明確に現れているのは階段の踊り場である。この踊り場の重要性を理解するには、建設当初はここが出入口であったことを知る必要がある。つまり、訪問者は100m道路という都市の尺度を感じながら、社会的人間の尺度で構成された資料館を遠方から眺め、同じく社会的人間の尺度でできたピロティをくぐり、この階段踊り場で初めて建物本体にタッチする。そこで、人間を最初に迎え入れるこの空間は、幅も高さも「人間の尺度」こと2482mmで統一された…と解釈できよう。果たしてこの空間が本当にヒューマンスケールなのかは、ぜひ各自で現地確認してみてほしい。


5 現状と今後

#20:ピロティがゲートとして機能する。

#21:恒例の灯籠流しも目的が慰霊からメッセージ発信に変化している。

資料館(西館)は世界平和記念聖堂と共に、戦後の建築として初の国指定重要文化財になったこともあり、広島市は可能な限り延命して使い続ける方針を決めている。高度成長期の公共建築に多いこの種のモダニズム建築が十分にメンテナンスを受けないうちに老朽化し、軒並み建て替えられていく中にあって、それらの先駆けであるこの建物は今なお役割を果たし続けている。
さて、ピースセンターの真価を知るには、やはり8.6を直接見るのが一番だ。テレビの全国中継は朝の数分しかないが、この日、公園内外には様々な政治団体やら宗教団体やら外国人やらアーティストやらが押し寄せてきて、一種独特な雰囲気に包まれる。インターナショナリズムを体感できるだろう。
現状についてもう一つ。「平和の門」でも書いたように、当事者である被爆者の高齢化はいよいよ進んできている。慰霊と平和という二つのコンセプトのうち、慰霊の色が薄れていく(直接知っていた人を弔うことがなくなる)のは確実で、丹下が本来狙っていた「平和を創り出す工場」としての機能を強化していく必要があるだろう。具体的には、平和公園という公共空間を使って世界的なイベントやアート展、インスタレーション等を展開しメッセージ発信能力を高める(ニュースが世界配信されるくらいのレベルまで)ことが考えられる。こういった試みは公共空間活用という時流もあり既に試行が始まっている。