長迫公園/旧海軍墓地

不詳 1890

呉市の東部丘陵地に設けられた旧海軍墓地が公園として公開されている。平地の少ない呉らしく、斜面に沿って石垣を築き立体的に造成された。

可視化される戦没艦の多さ

まず驚くのは碑の数だ。特に目立つのは太平洋戦争での戦没艦の合祀碑であり、しかも昭和40~60年代の設置が多い。艦の大きさと碑の大きさは必ずしも比例せず、戦艦のような大艦から駆潜艇・海防艦のような小艦艇まで様々な碑が並んでいる(写真#1)。

他とはちがう碑

園路を進んでいくと、他とは明らかに違う立派な碑が見えてくる(写真#2)。「上海・満州事変戦没者之碑」とあり、1933年建立。他の碑とはグレードがまるで違い、石材加工レベルは高く、アールデコの装飾もある。また、園路の正面、アイストップとなる場所に計画的に置かれており、ランドスケープデザインの意図も読み取れる。他の合祀碑が戦後の慰霊のため生存者・遺族の寄付により建てられたのに対し、この碑は事変直後に、おそらく戦意高揚を狙って公金で建てたものと推測する(民間のお金も入っているかもしれないが)。上海事変はいわゆる15年戦争の序盤に海軍陸戦隊が主力として戦ったことで知られる。1933年といえば海軍はほとんど無傷で、アメリカとの戦争が起きるとも思っていない。まして連合艦隊が全滅し膨大な戦死者が出るなど予想しているはずもない。だから、他の碑が狭い土地に肩を寄せ合うように建っているのに対し、この碑は大きな敷地に計画的にゆったりと建てられているのだろう。

空間から感じとること

日清・日露・第一次大戦での海軍の損害は限定的であったが、第二次大戦では誰も予想できないほどの空前の損害を被り、海軍自体が消滅するに至った。その事実は園路や碑の配置、碑自体のデザインにも投影されている。また、立派な「上海・満州事変戦没者之碑」と違って、第二次大戦期の戦没艦の碑は戦後に遺族などが建てたささやかなものが大半であり、海軍墓地の主目的が戦死者の弔いではなく戦意高揚であったということが空間からも感じ取れる。