呉YWCA

不詳

#1:角地に建つ

呉の旧海軍ゾーンと市街地のちょうど境界線、石垣の上に建つ木造建築。知られざる旧海軍施設とされるが、設計者や竣工年はいまだ不明である。

立地を読み解く

#2:立地解説

#3:二股に分かれる階段

まずはこの建物の立地を解説しよう。旧海軍用地は現在のJR呉線の線路から海側一帯であるが、正確には水路(天然の川を海軍が付け替えたらしい)よりも南側ということができる。呉の市街地を貫く本通りはそのまま海軍用地に入っていき、その境界には水路を渡る「めがね橋」があった(現在は地名が残っている)。
海軍用地の中でも、めがね橋周辺は住居系のゾーニングだ。代表的なのは司令長官官舎だが、その他にも将校の官舎が並び、士官クラブである水交社もあったという。下士官兵集会所は入港した艦艇の乗員が上陸中に泊まる宿泊施設でもあり、やはり住居系である。そして、呉YWCAの建物は水路沿い(すなわち境界線上)で官舎街に隣接した立地であることが分かる。
なお、このエリアは戦災を免れており、周辺の市街地も若干焼け残った結果、わずかながら戦前期と思われる町家が現存している。

当初の建物用途についての仮説

本作の当初の建物用途は、よく分かっていない。参考文献 1) では本作について「元水交社跡」「戦前は海軍の倉庫」「戦時中は軍装品の倉庫」といった記述があるので、以下の3つの仮説が成り立つ。
[仮説1] この建物は水交社そのものである。戦時中だけ倉庫だった。
[仮説2] 当初水交社があったが解体され、倉庫であるこの建物が建った。
[仮説3] 水交社に付属する倉庫であった。

現地に行ってみると「こんなシンボル性の高い場所に倉庫など建てるだろうか?」との疑問が浮かぶが、市中の御用商人が出入りしやすく、軍人への備品の受け渡しの利便も考えると、倉庫とはいえ事務所機能があるならばこの立地になるのかもしれない。というわけで私が最有力と考えるのは[仮説3]だ。[仮説1]については、戦時中に急造したために簡素なしつらえととの可能性はあるものの、やはり士官クラブにしては簡素すぎるので可能性は低いと考える。

階段の謎

#4:2階階段ホール

本作の謎の一つに階段がある。階段はV字プランの頂点にある縦長窓の内側に置かれており、途中で二股に分かれて上がっていくのだが、いかにも西欧的であるとともに、倉庫としては考えにくい形状だ。やはり士官クラブだったのだろうか?
私の仮説では、この階段は戦後に進駐軍が設けたものであろうとみている(直接的な証拠はない)。というのも、本作は終戦直後に呉にやってきた英連邦軍(オーストラリア軍、ニュージーランド軍)に接収され、礼拝堂等に使われた後、YWCAに払い下げられたという経緯を持つ。YWCA(キリスト教女子青年会)とはキリスト教を基盤に女性の自立・解放を目指す団体であり、呉の場合、設立を支援したのは進駐軍の一員として呉に滞在した女性たちであった。資金集めに苦労しつつも比較的スムーズに払い下げを受けられたのは背後に進駐軍がいたためであろう。
YWCAには当時の写真も残っていて、占領下にあった呉で日濠の女性同士の交流がさかんに行われていたことが分かる。本作の室内には当時の家具類も現存していて、あまり知られていない呉の戦後史の一ページが空間として残っているのは大変貴重といえる。

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