海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校/旧海軍兵学校

不詳 1893

[注意] ここでは通常非公開建物も含めて解説していますが、通常見学可能なのは生徒館の表側外観・大講堂の外観/内部・グラウンド・教育参考館の外観/内部のみですのでご注意ください。


#1:江田島湾に向けて開かれた配置計画になっている

#2:正門は建物からみると裏側にあたる。ちなみに当初の門はここよりも南側にあった。

かれこれ120年も同じ場所が全く同じように使われ、さらに建築群が現存している…日本国内にそのような場所がどれだけあるだろうか? 百年間同じ用途に使われていても建物が更新されていたり、逆に建物が残っていても同じように使われていることは少ない(観光地化された神社仏閣や伝建など)のが通例だろう。だが、瀬戸内海に浮かぶ江田島の旧海軍兵学校では、建築群が残り、かつ往時と同じ凛とした空気が流れている。今となっては貴重な場所である。
敷地内には県内トップクラスの意匠と歴史を誇る建築が複数あり、それぞれ解説していく。

海軍兵学校の建設経緯と役割

海軍兵学校(海兵)とは、海軍士官を養成する機関である。帝国大学や陸軍士官学校と同レベルの試験で選抜され、江田島で3年間の高等教育を受けると少尉からスタートする。ヒラの水兵から少尉に昇進するのは極めて難しいわけで、兵学校生徒は将来が約束されたエリート集団といえる。
海軍の教育機関は江戸幕府が1855年に開設した長崎海軍伝習所を起源とし、江戸 築地に集約された「軍艦操練所」を明治政府が引き継いで「海軍兵学校」として発展させた。しかし、アメリカのアナポリスを視察した伊地知中佐(当時の海兵次長)が繁華街に近い築地では教育上不都合が多いと主張し、1886年には兵学校の江田島移転が決定、1888年には移転している。海軍は横須賀に続く軍港建設地として呉と江田島を調査しており、軍港は呉にして兵学校を江田島に置くことにしたようだ。
こうして江田島に根付いた兵学校は終戦まで士官の養成を続け、米海軍のアナポリス、英海軍のダートマスと肩を並べる教育機関として世界的に知られ、戦時中に校長となった井上成美は周囲の反対を押し切って英語やテーブルマナーなどジェントルマン教育を貫いたなど、様々な逸話が残る。空襲はほぼ受けないまま終戦を迎え、戦後の連合軍による接収の後、海上自衛隊の学校となり現在に至っている。
陸・海・空の中で海上自衛隊は、最もあからさまに旧軍との繋がりを意識する組織だ。軍艦旗やセーラー服、そして校舎も昔の面影をそのまま残している。

(1)幹部候補生学校/旧海軍兵学校生徒館

#3:幹部候補生学校の表側ファサード

#4:幹部候補生学校の裏側は桜の時期しか見学できない

兵学校で最も知られた建物はこれだろう。呉の鎮守府庁舎とともに現存する県内最高クラスのレンガ建築であり、全長140mという大建築でもある。設計者についてはJohn DIACK(ジョン・ダイアック)の名前があがるが定かではなく、尺貫法で設計され当初は和瓦葺きであったことなどから、実際は日本人技師(例えば呉鎮守府建築科あたりか)の可能性が高い。また、本作のレンガについて「イギリスから軍艦で運んだ」という伝説があるが、実際は国産品だったようだ。 窓枠は御影石で出来ており、シンプルだが優美な意匠だ。
当初と現在では相違点も多い。当初は正面玄関部分の屋根に3スパンに及ぶ大きなペディメントがあったが、1905年の芸予地震で損傷したため小さな丸いペディメントに変更された。同様に屋根も当初は和瓦葺きだったものがスレート葺きに変更され、左右のウイングも切妻から寄棟屋根に変更、コーニスは御影石から木製に変更された。また、正面エントランスは開口部が大きくアンバランスな印象を受けるが、当初はもっと小さかったようだ。
本作の外観で最も美しいのは裏側の回廊部分だ。回廊は中央部の階段室で途切れてしまうが、それでもかなりの長さを持ち、石とレンガの連続正円アーチが大変優美である。この回廊は普段の見学コースでは見られないが、桜の時期だけは見学可能であるので、ぜひタイミングをはかって訪問してみて欲しい。
建物内への立入は通常できないが、1階エントランス部分に入る機会を得たので簡単に記すと、床はチーク材(軍艦金剛からの移設らしい)で頭上には偏平アーチ、階段の装飾はバッチリ桜と錨があしらわれていた。


(2)大講堂

#13:大講堂の海側ファサード。御影石の加工水準は大変素晴らしい。

大講堂は主に入校式・卒業式などの儀式を想定して建設され、2000人を収容できる大空間を持つ。なかなか建設予算が付かず、竣工は1917年にずれこんでいる。
躯体はレンガで、外装には徳山産御影石が張られている。石材加工の水準は極めて高く規模も大きい。石を使った建物としては県内最高傑作と言っていいし、それ以前に本作は県内最大の様式建築であろう。正面玄関は車寄せのある側であるが、生徒の入口がある海側ファサードも見ごたえがあり、4本の列柱(イオニア式柱頭装飾)の間に3つの大きな扉が付き、両側の階段室が張り出してくる堂々たる外観だ。
室内もやはり石材が多用され上質感がある。ステージ正面のレリーフは知恵の象徴たるフクロウと思われる。往時はその下に御真影があったのかもしれない。


(3)教育参考館

#18:脇には甲標的。左奥の赤レンガが理化学講堂。

教育参考館は、海軍関係の資料館。ここは通常の見学コースで内観できることがある。収蔵資料は終戦時にかなりの量が処分されてしまったが、それでも残ったものが展示されている。1936年というのは戦前期RCの成熟期で、山下寿郎が設計していることもあり建築の水準は高い。外観を見ると列柱の印象が強く残るが、装飾は幾何学的なものがさりげなく付いている程度。当時は既にモダニズムの普及が進んでいたはずで、あえて巨大な列柱を付けたのは権威を強調する意図と推測する。どことなくムッソリーニが好んだスタイルにも似ているように思えた。
内部(撮影禁止のため写真はない)には、東郷提督とネルソン提督の遺髪に向けて階段で上げていく吹き抜け空間があり、こちらの方が外観より空間デザインとしては優れているように感じられる。

(4)旧海軍兵学校理化学講堂 [非公開]

#19:旧理化学講堂

旧理化学講堂は教育参考館の裏側にあり、内部にはいくつも講義室があったというが現在は使われていないようだ。兵学校開校時にはこれとは別に理化学講堂があり、本作は二代目ということになる。
外観を見ると1階部分のレンガで溝を刻むデザインが目に付く。これは旧呉鎮守府庁舎に酷似しており、ひょっとしたら建設当時の呉鎮守府建築科長である桜井小太郎が本作の設計に関与したのかもしれない。
その他は比較的シンプルな造形だが、エントランス上部には御影石とレンガで高欄のような形を作っているのは遊び心が感じられるし、屋根に載る八角形の塔(換気用のガラリの小窓が付いているという)も愛らしい。また基礎部分の焼き過ぎレンガはそれぞれ微妙に色彩が異なり外観に深みを与えている。

(5)水交館/旧海軍兵学校文庫館 [非公開]

#20:水交館の手前には十分な”引き”の空間があり、植生を除けばヨーロッパを思わせるたたずまいだ。

#21:ベランダも備える。

水交館は教育参考館からさらに山側に進んだ丘の上にあり、1888年の開校時からある最古参の建物である。当初の用途は将校の集会所で、ファサードの手前にたっぷりスペースを確保することで欧州の大邸宅にも似た雰囲気が出ている。
本作は明治中期らしい高純度の洋館(擬洋風でなく日本化されてもいない)というところに特徴がある。エントランスの車寄せやファサードを彩る装飾も品よくまとめられている。興味深いのは向かって右手(南側)の45度振った突出部で、ここを突出させる必然性があるとも思えないが、外観上のアクセントとなっている。
向かって右手には庭園があり、かつては海まで見渡せたという。庭園側にはコロニアル建築を思わせるベランダが付くが、その支柱はコリント式柱頭装飾が付く鋳鉄製だ。窓は当然のように上げ下げ式、屋根は和瓦葺き。さらに、雨水の樋を壁に埋め込むことで、パイプが壁面から突出しないよう配慮されているのには恐れ入った。
もう一点、外観で気になったのがレンガの積み方で、敷地内の他の建物がイギリス積みなのに対しなぜか本作だけがフランドル積みである。理由は諸説あるが不明である。
インテリアはかなりシンプルだが、大理石製の暖炉などポイントは押さえられている。階段室は洋館らしくしっかり作られており、本作の木製階段はどことなくジョサイア・コンドルの邸宅作品に似ているように感じた。階段の彫刻も華美なものではないが、1階がつぼみで2階がちょっとだけ開いたつぼみ…という注意していないと気づかないさりげなさだ(写真#29)。
本作の設計者は不詳であるが、これほどのものを設計できる建築家は当時数少なかったはずで、仮に当時呉鎮守府にいた曽禰達蔵が本作に関与したとすれば納得がいく。


(6)賜さん館 [非公開]

#30:ファサード

賜さん館は1936年の昭和天皇行幸時に建てられた平屋のホール施設で、水交館の裏側の高台に建っている。外観はRC造にも見えるが実際は木造で、外壁はタイル貼り。基礎は石だが、エントランスとコーナーは石ではなく擬石で、左官職人が石のように仕上げている。ちょっと見ただけでは気づかない手の込み方をしている。室内には玉座の跡と思われる装飾などが残されているものの、補修や改造が入っており、どこまでがオリジナルかは不明。


(7)その他の箇所

敷地内には他にも数多くの施設がある。通常の見学コースでも船艦陸奥の砲塔(*1)あたりまで行けることがある。