旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館)

桜井小太郎 1906

#1:手前に洋館、奥に和館

#2:和館側から見る

#3:ハーフティンバー

#4:扉を開けるとすぐ和館

旧呉海軍鎮守府のトップである司令長官の官舎だった建物。JR呉線の南側に広がる旧海軍ゾーン内の入船山と呼ばれる丘の上に建つ。全国的にも海軍官舎の現存例はまれで、長官クラスの官舎で内部見学可能なものはおそらくこれだけだろう。旧海軍の建築文化を直接体感できる重要な建物である。

建設までの経緯

入船山は呉浦の入江の要となる場所にあり、亀山神社という神社があったが、鎮守府建設にあわせて神社は移転となり、跡地に軍政会議所兼水交社が建てられた。これは木造二階の洋館であったが1905年の芸予地震で損傷し解体された。その跡地に旧建物の部材を一部再利用して建てられたのが本作であり、長官の住まいとして終戦まで使用された。戦後は占領軍に使用され、返還後の1966年には国から呉市へ譲与、1967年から一般公開された。また、1991~1996年で修復工事が行われ、竣工当初の姿に戻されている。

建築家 桜井小太郎

呉鎮守府には施設の設計を担当する建築科があった。かの曽禰達蔵も在籍経験があり、海軍ゾーン内の建築設計を一手に引き受けていたと想像する。芸予地震当時の建築科長は桜井小太郎(1870-1953)(*1)で、本作は桜井による設計である。
桜井はちょっと異色の経歴を持つ。明治になって日本人建築家を養成するため、政府が招聘したのがジョサイア・コンドル。そしてコンドルの門下生として育った辰野金吾らが次の世代を育成していく。だが桜井はコンドルに師事するも弱冠18歳でコンドルの故郷であるイギリスに渡り、現地で教育を受け建築家の資格を取得した。つまり、日本人でありながら本場ヨーロッパ仕込みという珍しい建築家といえる。

洋館と和館の接合

では建物を見ていこう。門をくぐりアプローチしていくと、正面に洋館が現れる。ファサードは、ハーフティンバーが印象的だが過剰な装飾はなく、素朴なしつらえを旨とするイギリス風の邸宅建築で、まさに桜井は最適任であったことだろう。洋館の目的は応接であり、海外からの賓客も想定して立派な応接間や食堂があるが、寝室などはない。天井はとても高く、窓は上げ下げ式、スケールは完全に洋館のそれである。屋根は天然スレート葺きで、三連のドーマー窓がアクセントとなっている。
本作の重要な見どころの一つが洋館内部の壁紙で、金唐紙(*2)という。修復工事の過程で金唐紙が使われていたことが判明し、復元のため新たに製作され、貼り付けられている。ごく一部ながらオリジナルの金唐紙も残されている。
また、この種の邸宅の鑑賞ポイントの一つに施主に関わるマーク探しがあるが、本作の場合、玄関扉のガラスに錨のマークが描かれているくらいしか見つからなかった。

洋館の裏側には家族を含めた日常生活の場としての和館があり、両者はかなり強引に接合されている。