本庄水源地

井上親雄+飛山昇治 1918

海軍鎮守府が置かれ、軍港と都市の建設が始まった呉であるが、真水の確保という大問題に直面する。軍港では人間だけでなく軍艦にも水を供給する必要があり、二河川から取水する形で1889年という早期に軍用水道が開通した。一方、市街地には水道は引かれず、二河川は海軍が押さえてしまっており、市民生活に支障が出る事態となっていく。
一方の海軍も、海軍工廠が巨大化していくと二河川から取水するだけでは水量が足りなくなり、本格的なダム施設が必要ということになった。こうして計画されたのが本庄水源地である。建設主体は海軍で1918年に完成。これで給水量に余裕が生じたため市街地へも供給されることになり、呉市は平原浄水場を建設して対応した。戦後に海軍水道は呉市に移管され、現在に至っている(*1)。
水源地の中核となるのがこの堰堤(えんてい)で、高さ25m・長さ97mの重力式コンクリートダム。表面を彩る花崗岩(*2)の加工レベルは非常に高く、竣工時には東洋一とうたわれたといい、広島県内に残る近代化遺産の筆頭といえるだろう。しかもほぼ姿を変えることなく現役で使用されているのもポイントが高い。 なお、本作の設計は、当時の海軍呉鎮守府建築科長であった井上親雄と、その部下である飛山昇治を中心に行われたとされる。3) いざ工事が始まると死者15名 負傷者259名を出すこととなり2) 井上・飛山とも完成前に辞職したという3)から、その難工事ぶりがしのばれる。