旧陸軍被服支廠倉庫

不詳 1913

#1:外周道路側の外観。現在は道路だが当初は掘割であり、被服支廠と市街地とを区分していた。

#2:被服支廠のおおまかな区域。高校二個分以上のスペースを持つ巨大な施設だった。

広島デルタの南部市街地、出汐(でしお)と呼ばれるエリアに残る、旧軍需工場の倉庫群。現存する最大級の被爆建物でもある。ここでは最新の調査等をふまえ、本作の建築としての価値を中心に解説する。なお、本稿に掲載した内部写真は調査時に撮影したものであり、通常は内観できない。

被服支廠のプロフィール

#3:1944年当時の被服支廠倉庫(wikipediaより)。天窓がもともとあったことが分かる。(CC対象外)

被服廠とは文字通り軍服を扱う軍需工場である。軍服や軍靴の製造のほか、民間業者からの調達や貯蔵も重要な役割だった。まず1886年に東京本廠、1903年に大阪支廠が設置された。日露戦争中の1905年には広島に軍服の洗濯工場が建設されることになり、1907年には支廠へ昇格している。広島支廠の明確な設置理由は定かではないが、鉄道と近代港湾が整備済みであり、宇品に陸軍運輸部(陸軍輸送船を統括)が置かれているなど、大陸への物流拠点として使いやすかったためと推測する。なお、東京本廠や大阪支廠は現存しないため、本作は唯一現存する被服廠の遺構ということになる。

被服支廠の敷地は広大だ。西端はこの倉庫(さらに市街地との間には掘割があった)で東端は旧宇品線(現在は廃線)。倉庫4棟が残るエリアに県立工業高校と皆実高校を足して、さらに若干広げたくらいのサイズがある。現存する建物はこの倉庫だけだが、高校という低密な土地利用となっており長い塀がめぐっているため、被服支廠だった区画の雰囲気は往時のものをよくとどめている。なお、現在の1号棟わきに現存する門は被服支廠の正門であり、敷地に入って正面には並木と木造の庁舎があった(今は県立工業高校)。正門から京橋川へまっすぐ伸びる道のラインは当時そのままである。

被爆時は、爆心地から距離があったこともあり、本作を含む敷地内の建物が残った。しかしもちろん無傷ではなく、高熱の爆風にさらされ変形した倉庫の鉄扉などに戦災の爪痕を見ることができる。被爆直後には臨時救護所となって多数の負傷者を収容し、その多くが息絶えたという。詩人峠三吉の文章などからは当時の状況をうかがえる。

戦後すぐは学校の教室として使用され、1956年頃からは日通倉庫や広島大学の学生寮としても使用された(学生寮だったのは一番南側の4号棟で、内部には居室や浴室が設けられていた)。日通が使用を停止したのは1995年頃らしく、比較的最近まで倉庫として使用されていたことになる。なお、被服支廠の木造建物については、いくつかは校舎などとして使用されたようだが、現存するものはない。

国内最古級のRC(鉄筋コンクリート)

#4:国内最古級のRC建築である旧三井物産横浜支店

本作を建築としてとらえる第一のキーワードは「国内最古級のRC」だろう。RCは19世紀末から20世紀初頭に研究が進み、例えば建築家オーギュスト・ペレは1903年にパリでRC造の集合住宅を建てている。国内では1903年に琵琶湖疏水の橋でRCが使われたのがおそらく最古で、徐々に建築に応用されていく。現存するオフィスビルでは1911年の旧三井物産横浜支店、住宅では1916年の端島炭鉱(軍艦島)30号棟が最古であろう。しかし、当時は建材(セメントや鉄筋)は高価で技術者も少なく、本格普及したのは関東大震災(1923年)以降となる。震災によりレンガ造の脆弱性が明らかになり、いわゆる同潤会アパートや校舎などではRCが積極的に用いられるようになり、佐野利器らによってRCの耐震構造の研究も進んだ。広島にもその流れは及び、本川尋常高等小学校(1928年)などが建てられた。ただしRCが現在のように一般に広く用いられるようになるのは戦後の高度成長期以降である。

このように日本でのRCの普及過程を振り返ると本作の特徴が浮かび上がる。すなわち、本作は関東大震災以前の、フランスやアメリカから技術導入をしながら試行錯誤していた時期のRCである点に特徴がある。確証はないが広島では初めてのRC造建築なのかもしれない。

レンガとRCのハイブリッド

#5:倉庫の二階内部。壁はレンガで柱・梁とスラブはRC。

#6:断面イメージ

#7:倉庫三階の小屋組。結果として独特な空間となっている。

国内最古級のRCである本作の際立った特徴として、レンガとRCの併用という大変珍しい構造である点をあげねばならない。一部の書籍では「RC造のレンガ貼り」といった表現があるが、レンガは飾りではなく構造体として機能している。

レンガ造の建物は全てがレンガでできていると思われがちだが、実際は外壁や主要な壁はレンガだが床は木や鉄であり、床を支える柱も木や鉄というのが通例だ。ヨーロッパのレンガ建築にしても、半分木造といえる。
本作は、この「木や鉄でつくる」はずの床や柱をそのままRCに置き換えてみた…という構成になっている。外壁や内部の仕切り壁の開口部はアーチになっており、モルタルが剥がれたところからはレンガが顔をのぞかせている。これらの壁からは鉄筋の反応が出ないので、おそらくRCではなくレンガの組積造とみられる。積みあがったレンガ壁の上にRCの梁と床を載せ、室内にはこれを支えるRCの柱を立てている。

さらに驚くべきは小屋組もRCという点だ。普通は木トラスか鉄トラスにするところを、ここではRCトラス?のようなことになっている。ここにRCの屋根が載り、瓦を葺いて仕上げている。ちなみに、広島には被服支廠の他に兵器支廠と糧秣支廠があったが、兵器支廠はレンガ造で小屋組は木、糧秣支廠もレンガ造で小屋組は鉄である(糧秣支廠は広島市郷土資料館として現存しており鉄トラスを確認できる)。三支廠がそれぞれ違うスタイルで屋根を作っているのは興味深い。本作の設計者は不明だが第五師団または陸軍の中央が担ったと推測され、こういった実験的な建て方ができる素養があったのかもしれない。

もう一点、気になるのは地盤関係。広島は砂地でどこも地盤が悪いが、当地は地名「出汐」から分かるように遠浅の海だった場所であり、重い建物を建てるのは難しい場所だ。本作では当時としては一般的な松杭を使用しようとしたがRCの杭に変更して施工したらしく、当時としても一応の対策はとっていたようだが、不同沈下が発生してしまっているようである。

建築デザイン

#8:倉庫二階内部。普通のレンガ建物内とは違うモダンな印象の空間。

本作は大正時代の建物であり、明治期のような西欧の様式そのままでもなく、昭和期のモダニズムとも違う。同世代の建物である旧産業奨励館(原爆ドーム)はセセッション風の装飾を伴うが本作に装飾らしい装飾はなく、せいぜい梁の端部の繰型や外観を引き締める御影石の使用くらいであろう。

しかしRCを使うことで内部にはレンガ造とは少し様相の異なるモダンな空間が広がっており、狙ったわけではないだろうがレトロとモダンの境目を感じさせる表現となっている。

広島の歴史を知るために欠かせない空間体験

#9:どこまでも続く赤レンガ倉庫のスケールに圧倒される。

一介の地方都市にすぎなかった広島が近代化の原動力を軍需に求めたことは、それが良かったか悪かったかという議論の前に、歴史的事実としてしっかり受け止めなければならない。だが、いくら教科書で「軍都としての広島」を学んで覚えたとしても、実感を持つのは難しいだろう。

一方、旧被服支廠の倉庫群の前に立つと、理屈抜きにそのスケールの大きさに圧倒される。また、曲がったまま放置された鉄扉は、何の説明書きがなくても被爆という事実とその破壊力を訴えかけてくる。机に向かう勉強は視覚しか使わないが、建築を通した空間体験は五感をフルに使うため、得られる情報量は圧倒的で、そこから「実感」が生まれてくる。

被爆後も多く残っていたデルタ南部の旧陸軍施設は、そのほとんどが戦後の都市の成長の過程で姿を消してしまった。軍都広島の面影を実感できる場は、もはやこの旧被服支廠しか残されておらず、その価値はとてつもなく大きい。

現状と課題

これら倉庫は20年ほど空き家となっており、現在は使用されていない。詳細に調べたわけではないが、耐震性をはじめとして様々な課題があるはずで、崩れない程度に維持するならともかく、他用途への転換して使用するにはそれなりの費用がかかるのだろう。過去に何度も利活用検討がなされたがとん挫したまま、辛うじて解体されずに現在に至っている。だが、空き家のまま老朽化が進めば解体という政治決断がなされるおそれもある。

古い県営倉庫の利活用は尾道の ONOMICHI U2 などの事例もあるので不可能ではないはずだ。本作には前述のとおり、非常に大きな価値がある。原爆ドーム並みに情熱(と予算)を持って保存に取り組むべき、第一級の遺産ではないだろうか。

その他の写真