市営平和アパート

不詳 1949

[注意] 平和アパートは現役の住宅です。住民およびご近隣に迷惑となることのないよう、見学はプライバシーに配慮しながら外観のみ静かに行ってください。


京橋川に面した市営住宅。復興の足取りもおぼつかない昭和24年に出現したRC(鉄筋コンクリート)造の集合住宅であり、竣工当初は大きな注目を集めた。「平和アパート」というネーミングにも時代が現れている。詩人 峠三吉(1917-1953)もこのアパートの住人で、「河のある風景」という詩は部屋から眺めた京橋川を詠んだものとされている。

戦後復興を担ったRC造公営住宅と標準設計

#1:右端が1号棟。浴室が手前に増築されファサードに凹凸が付いている。

終戦直後の日本で最大級の問題、それは住宅難であった。焼野原と化した都市には各所で粗末な木造公営住宅が建てられたが全く足りず、バラック暮らしをする人も多かった。そのような状況にありながらも、戦災復興院(*1)が中心となって東京・高輪に戦後初のRCアパートとなる「高輪アパート(1947年)」が実験的に建設され、不燃住宅の道を開いた。平和アパートの1号棟は高輪の翌年である1948年に計画された一つであり、設計自体は高輪アパートによく似ている。さらに翌年の1949年からは、RCの設計能力に乏しい地方のために公営住宅標準設計というものが毎年作られるようになり、全国各地に同形のRC公営住宅が建てられていった。平和アパートの2・3号棟は49型、若草アパート(現存せず)や高須アパートは50型である。

被爆3年後のRC施工現場

#2:京橋川沿いに建っている。戦災復興区画整理で作られた河岸緑地の緑が美しい。

本作の設計者は不詳である。袋町小学校や山陽文徳殿などでRC建築の高い設計力を誇った広島市役所営繕の技師は被爆により全滅状態だったことを考えると、おそらく図面は高輪アパートの経験を踏まえて東京で作られ広島に送られてきたのだろう。しかし図面はあっても被爆3年後の現場でRCの施工監理をするのは大変な苦労があったことは想像に難くなく、その工事をこなせたのは大陸帰りで広島市技師となった藤本初夫の存在が大きい。なお、この平和アパートで育った息子の藤本昌也は建築家となり、大高正人の下で担当した基町高層アパートのほか、庚午南や鈴が峯などの公営住宅をいくつも手がけている。

建築作品としての視線

#3:平和アパート1号棟の間取り。標準設計51型出現前なのでダイニングキッチンはまだなく、居室で食事と就寝の両方を行う。

#4:間取りの比較

さてさて、築70年のアパートは大幅に手が加わっているものの現役だ。既に高輪アパートは解体されたので、本作は現存する戦後のRC公営住宅として最古とみていい。

現代の集合住宅設計では、容積対象外部分を上手に使いながら高く売れる床を多く作ることに注力するが、当時は容積率という概念もなく、高インフレの中でいかに施工面積を減らすかが勝負であり、そのためかこのアパートにバルコニーは存在しない(*2)。一方で、後に浴室を増築した結果ファサードは凹凸に富むことになり、薄いスラブの表現も合わさってモダニズムっぽい見ごたえのある外観になっている。なお、ダイニングキッチンが登場し食寝分離が図られたのは標準設計51型以降であり、本作では食寝分離は図られていない(居室で食事と就寝の両方を行う)。

ともかく、国内でも特に甚大な被害を被っていた広島の地で、戦後2番目の早さでRC公営住宅が建ったという事実に感銘を覚えずにはいられない。無名だが歴史的価値の高い建築と言えよう。